「垂直の記憶」 山野井 泰史著

山野井泰史は登山界のベートーヴェンであり、宮沢賢治である。

垂直の記憶―岩と雪の7章 

 山野井夫妻のことはあるTVの番組で知った。2人とも命と引き換えに凍傷で多くの指を失っている。しかし、指を失ったことなど人生を生きる上でたいしたことではないとでもいうように二人の語る言葉には絶望も気負いもない。クライマーが指を失うとは音楽家が聴力を失うことに近いだろう。にもかかわらず、番組の中の彼らの表情や暮らしぶりは、ひたすら前向きで明るかった。生活のすべてをクライミングのために捧げる暮らしは喜びに満ちたものだという気がした。捧げる、というより、彼らにとって生活と人生とクライミングはまったく同じものなのだ。「こういう人にはかなわない」と私は思った。
 彼ほどのクライマーなら、たとえば企業のエンブレムを着けて登れば大金を手にすることだって可能だったろうが、金のために山に登ることはなかった。好きな山に登れる暮らしに感謝し、何者にも頼らない前提で生きている(結局大勢の人のおかげだということももちろんわかっている)。その潔さが胸を打つ。過剰や贅沢を好まず、自然を愛し、好きなことに没頭する。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を思い出す。それは今の時代にこそ求められるべき暮らし方だという気がする。
 山野井夫妻のことについては、沢木耕太郎の「凍」などノンフィクション作品もいくつかあるが、私は山野井さんが自分の言葉で綴った本をまず読みたいと思った。
 彼の文章は、おおげさすぎず、等身大のストレートな表現ですいすいと読めた。極限をきわめたいという衝動(もしくは本能)に突き動かされながらも、入念な準備を怠らず、鍛錬に裏付けられた体力と世界最高レベルの登攀技術を駆使して岩山に挑んでゆく姿は気高く美しい。
 本書の最終章で、私たちはその壮絶な生還の詳細に接することができるわけだが、今や彼はギャチュン・カンで10本の手足の指を失い、かつてのようなクライミングはもうできない。それはもちろんショックだったろうが、指を失った後日本の山を登った彼は、自分が山をどれほど愛していたかを再確認し、「今の自分にできる最高レベルのクライミング」を真摯に目指し続けている。
 本書は、自ら選んだヒマラヤ7峰の登山について書かれたそれぞれ7つの章と、各章の間に挟み込まれた「両親」「結婚」「生活」「仲間」「死」「夢」と題されたコラムで構成されている。山野井泰史という世界最高のソロ・クライマーがこれまで成し遂げたロック・クライミングの記録、そして記憶であり、未来への希望を語る次なる挑戦への宣誓の書でもある。そして私たちは、少し前に放送されたドキュメンタリー番組で、昨年(2007年)グリーンランドの岩壁に挑んだ夫妻の様子を目にしたのだった。

(初出 BK-1 2008/01/23)

「うるわしき日々」 小島 信夫著

小島信夫の自在さが体現する「小説の可能性」

うるわしき日々
 最近ケータイ小説なるものがはやっている。2007年のベストセラーの上位を占めるという。中心的な読者は女子高生。等身大の主人公に起こる不幸や悩みに自分の姿を重ね合わせ、困難に立ち向う姿に共感し、時に涙する。「難しい言葉」など出てこず、ケータイで一話ごとに買って読める「気軽さ」も良いのだと、普段本はほとんど読まないという少女がTVで語っていた。
 ひるがえって、この「うるわしき日々」はどうか。
 主人公が作家であるとはいえ、ここに描かれる人々の暮らしぶりは、およそ日常的な範囲にとどまるといっていい。ただし、登場人物に若者はほとんど出てこない。だからといって老人向けというわけではない(しかしもちろん誰もが年をとる)。
 主人公の老作家夫婦もそれなりに悩ましい不幸に見舞われている。建てた家に発覚する不都合の数々。妻子に見捨てられた五十過ぎの息子はコルサコフ症(アルコール中毒の末期症状)で、その面倒を彼らが見なくてはならない。後妻として血のつながりのない子供たちを育て、献身的に家庭を支えてきた老作家の妻には、最近認知症の兆候もある。
 ケータイ小説の読者はこんな小説は読まないのだろう。この本を手に取り読み終えるには、多少は年齢と経験を重ねて、少し客観的に作品と対峙できる必要があるという気がする。そのような読者は、小説の中の出来事を「その程度の困難や苦悩は誰にでも起こりうること、事実多かれ少なかれ自分にも起こってきたこと」として眺めるはずだ。だが、――人はみな忘れてしまうが――当事者にとっては、日々直面する「その程度の」苦悩の中にこそ生きることの辛さ・苦しさがあることは、わが身をよくよく振り返るだけでも実はわかることだ。作者がこの小説で描いているのは、人間の苦悩は特別な状況や特別な人にだけやってくるわけではなく、日常を生きること自体が苦悩の連続でもあるという事実にほかならない。感情を抑え、対象に対する客観的な態度を保持しながら、小島はそれを淡々と描き出す。
 本文の一説。
 「<おそるべきことであるが、人間の苦悩は、当事者にしか分かるものではない>しかし、この動かしようのない事実というか真実ほど、人は忘れ易いことはない(後略)」
 さらにこう続く。
 「この<理解することができない>というのは偉大なる真実だからである。(中略)苦悩が同じ程度に通じたら、世界中の人類は、すべてノイロ−ゼになってしまい、地表の気象さえ変えてしまう結果にもなりかねない」
 小島が描いたものが「生きることは苦しいことで、それは当事者にしか分からない」ということだとしても、小島の筆致なり、主人公の老作家の姿勢にはむしろ信念に基づく「つよさ」が一貫して感じられる。そんな人生を決して悲観していない。そこにこの小説のすばらしさがあると私は思う。良い小説は何を描くかにかかわらず必ず読者に元気を与えてくれるものだ。
 私は、苦悩する日々を描きながらなぜ「うるわしき日々」なのか不思議に思っていた。その答えこそ小島信夫の導き出した「生きる意味」そのものなのだと思う。
 「うるわし」を広辞苑で引くと、もともとの意味は「事物が乱れたところなく完全にととのっている状態」とある。主人公の老作家にとってもっとも大切なことは、どんなキツイ状態に置かれていても「筋が通っている」(たとえばP.74)ことなのである。生きることがたとえ苦悩の日々であろうと、それが自分にとって「親が子の面倒を見る」ごとき必然であると認められるならば、困難を乗り切る「すべ」なり「知恵」なりを探し求め、投げ出さずに立ち向かう。それこそが「生きる意味」なのである。それこそが人生に対処する小島の流儀なのだと思う。ここに描かれた日々は筋を通したいと願い、筋を通して生きた老作家の「うるわしき日々」の記憶でもあるのである。

 小説家・小島信夫の最大の特徴は、その自在さ加減、その自由なスタイルにあると思う。小島自身、小説を書くにあたってプロットや構成にあまり拘泥しない「自由さ」が自分のスタイルだとどこかに書いていたと思う。一般人にとってはマイナーな存在の小島信夫だが、実は日本の小説を語るときに欠くことができない大きな存在なのかもしれないと、この小説を読んでやっと今頃私は思っている。
 たとえば「うるわしき日々」の語り手たる主人公の呼び名は、違和感なく自在に移っていく。老作家・彼・小説家・父・老いた夫・三輪俊介(最後の「若い小説家の手紙」の中では、あろうことか小島先生と呼ばれている!)・・・その縦横無尽でさりげない動きは、ポジションを変えながら、1人フィールド内を自由に動くことを許されたサッカーのミッドフィルダーのようだ。作者である小島信夫は、(小島信夫に似た)主人公の老作家を、ためつすがめつ眺めているのだ。実人生(それもまたフィクションでないという証拠もない)と物語の間を作家は自由に行き来し、そこに境界はない。
自由自在な点はほかにもある。この小説では時空が自在に移動する。それから、物語と批評が自在に入れ替わり立ち代る。後者など時に小説なのか評論なのかわからなくなる。
 小島自身も、本人以上に小島作品の本質を捉えているとさえ思える保坂和志も、小島の代表作として「私の作家遍歴」をあげているが、残念ながらすでに絶版で容易には手に入らない。図書館で借りて読みはじめたが、これは形式的には作家論である。しかし「うるわしき日々」の形式が小説であると断定しがたいように、「私の作家遍歴」が小説だと言われても納得してしまいそうだ。すると「私の作家遍歴」のあとがきに、こう書いてあるのを発見した。
 「私は気がつくと、けっきょく、作家やその人物たちを相手に、小説を書いているのでした」
 そもそも小説とはどんな形式も取り得て、排除されない自由さにその本質があるはずだという思いにいたる。
 最後にもう1つだけ指摘しておきたい。コルサコフ症のために虚言癖のある息子が、要所で決定的な発言をし、物語にアクセントと推進力を与えているが、私は、大江健三郎の傑作「新しい人よ 目覚めよ」のイーヨーをすぐに思い出した。ただ、日常的状況に似つかわしい一見ルーズな記述の「うるわしき日々」では、そうした散漫さにまぎれて、イーヨーほど存在感がない。ピエロもしくはトリックスターとしての長男の役割も「新しい人よ 目覚めよ」のイーヨーに比べると劇的な効果の点で劣るけれど、小島の書く小説のスタイルにはそのほうがふさわしいという気がした。

(初出 BK-1 2007/12/13)

「ユートピア」 トマス・モア著 平井 正穂訳

政治家や経営者にこそ、今まさに読んでもらいたい。モアが命賭けで作り出した世界の理想に学ぶべきことは多い。

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)
 期待以上に面白く読んだ。ここで示されたモアの理想の世界像が、結局のところ21世紀の現代でも、いまだに求められる理想であり続けていることは興味深い。
 テクノロジーの分野では、人間はこの何千年で格段に――とりわけこの100年ばかりの間に加速度的に――進歩したが、本質的で根源的な諸問題――たとえば「人間の幸せとは何か」とか「どう生きることが人として正しいか」とか――については相も変わらず結論は出ないままで、問題をむしろ複雑化させ、分かりにくくさせてしまった気さえする。そういう問いに対する答えは人それぞれだという考えにも一理あるし、人間は事実そのようにやってきた。その結果われわれが選択したこの世界はベストもしくはベターなのかどうか。1つの正しさに収束できないこと自体が人間の本性であるとすれば、良いも悪いもなく世界は遅かれ早かれこのようにしかならなかったんかもしれない。
 本書の全体は大きく2つに分かれている。第1巻では具体的な事実を挙げて当時のイギリス(およびヨーロッパ)の社会のあり様を批判しながら、対極にある理想の国として「ユートピア」が紹介される。モアは第1巻ですでにユートピアを、次のように簡潔に記している。

「すくない法律で万事が旨く円滑に運んでいる、したがって徳というものが非常に重んじられている国、しかもすべてのものが共有であるからあらゆる人が皆、あらゆる物を豊富にもっている国」

 もっとも重要なことは「平等の確立」であり、それは「すべての人が銘々自分の私有財産を持っている限り、決して行わるべくもない」とも述べている。
 ユートピアの詳細については、第2巻でテーマを区切って語られるが、考察が不十分なところも散見し、退屈な部分もある。ユートピアはモアが作り上げた空想の産物ゆえに、記述が詳細に及べば及ぶほど粗も見えてくるのはやむをえまい。ただ、モアの当時の政治に対する嘆きの深さ、人々の幸せな暮らしを希求する思いの強さ、それゆえに理想の国「ユートピア」を描き世に問うことへの情熱の熱さはどの行間からも伝わってくる。
 訳者・平井正穂さんの解説によれば、モアは暴政−−とりわけ国王ヘンリー8世ローマ教皇を無視し自ら聖職の最高位につくという暴挙−−に抗議し、役職を辞した後、国王の逆鱗に触れ斬首になる運命をたどったという。ユートピアに込められたモアの理想は単なる机上の空論ではなかったのだ。実現されるべき命がけの理想であり、その意味でモアは真に高潔な人物だった。静かに絞首台に散った彼の人生は、内なる激しさにおいて命を賭して理想を実現させようとする革命家のようだ。
 モアの本職は法律家である。その最高位である大法官にまで上り詰めていた。一方で、敬虔なカソリックヒューマニストでもあり、世界の平和と幸福は宗教(カソリック)の統一によって成し遂げられると考えていた。全体を締めくくる第2巻の最終章に「宗教」の項を置いたのはもちろん偶然ではない。宗教によってもたらされるはずの「人間の徳」が国づくりの上でも最も重要だと考えていたからにほかならない。
 ユートピアの聖職者は、最高の地位にはあるが、なんら権力を持たない。ただ自らと神の前にのみ頭を垂れる者にすぎない。ユートピアでは宗教は一切自由で(中でもキリスト教が優れているとも取れる記述も少しあるが)、礼拝堂にはあらゆる宗教の人が一度に集まり、「道こそ違えど、目指す高嶺は一つ」と聖なる存在を拝む。「人がその好むところのもの信ずるということは、もともと人間の力ではどうともしがたいということを、ユートピア人は知りすぎるほど知っているからである」とも記している。モアは敬虔なカソリックではあったが、目指していた理想の宗教とは、つまるところそういうものであったのかもしれない。権力によって聖なる存在に就いた国王ヘンリー8世の誤りはモアには許しがたかった。
 ユートピアの政治システムの基底をなすイデオロギー共産主義である。よくも悪くも大変素朴でわかりやすい。本書の特徴として「ただし」書きが多いことに誰でも気が付くが、訳者の平井正穂さんは、そこに法律家たるモアの理性に基づく留保があったと指摘されている。法律家として厳密さを求める姿勢が、「徳」に任せ置けず、ついつい「ただし」と書いてしまったということだろう。マルクスに先立つこと約400年、それでも探せば粗はいくらでも見つけられると思うが、動機の単純さ・直截さゆえに説得力を失わない。
 当時のイギリス社会はあまりにも貧富の差が激しかった。貴族など、きわめて一握りの富める者の末裔だけがさらに富み、庶民・弱者はさらに貧しくなり不当に苦しい人生を送るしかなかった。まともな仕事に就くこともできない数多くの貧しい人々が「食うため」「生きるため」に盗みや人殺しさえする。しかしそれを誰がとめられよう、とモアは書いている。
 日本でも老人や若年層に犯罪が増えていると最近ニュースで聞いた。自由競争と公平の名の下に、社会的弱者に厳しさを増すばかりの昨今の政策、自立が困難なほど薄給で働かざるをえない派遣やバイトの若者たちの急増と、本書を読んで今の日本の姿が中世イギリスとダブるのは私だけではないだろう。世界で最も豊かな国の1つで最も社会主義的だといわれる日本でもこの有様だから、他に数多くあるさらに貧しい国々の惨状は想像に難くない。
 この本を読み当時の社会を知れば、500年やそこらで人間の本性がさほど高級になることなどないのだと改めてわかる。今、日本で、世界で取りざたされている「格差」の問題と根はまったく同じだ。「格差」は人間の果てしない欲望から生まれる。それこそが戦争や犯罪など諸悪の根源だとモアは結論している。モアは500年前すでに(モアによればプラトンはさらに2000年前に)そんなことは看破していた。「世の中それほど単純じゃない」と片付けてしまうのは簡単だが、その単純な論理をしかと振り返ることは意外と重要な気がするのだ。
 「ユートピア=どこにもない国」とは、その名前自体がすでにアイロニーを含んでいる。探しても、探しても、この先もずっとどこにも見つけられないのだろう。そういえばカート・ヴォネガットの最後の本の題名は「国のない男」であった。ヴォネガットもまたどこにもない国の住人になることをこそ夢見ていたのかもしれない。
 蛇足だが、モアは大変忙しかったらしく、寝食を削ったわずかな時間を使って1年でこの本を書き上げたと、知人ジャイルズ宛の手紙に書いている。人生では誰にとってもこなすべき雑事(それももちろん大事なのだ)は少なくない、その点も今も昔も変わっていない。

(初出 BK-1 2007/11/07)

「国のない男」 カート・ヴォネガット著 金原 瑞人訳

これはヴォネガットの「サミング・アップ」である。

国のない男
 今年(2007年)の4月に84歳で亡くなったヴォネガットが82歳のときに書いた最後の本である。本書の一節。
「『進化』なんてくそくらえ、というのがわたしの意見だ。人間というのは、何かの間違いなのだ。われわれは、この銀河系で唯一の生命あふれるすばらしい惑星をぼろぼろにしてしまった」(P.21)
 ヴォネガットは地球の危機的状況を正確に把握している(と私は思う)。単に温暖化がどうとか、戦争がどうとか、格差や貧困がどうとかいうだけではない。ヴォネガットの感じている深刻さは相当差し迫ったものだ。ただ、彼の周りにそう感じている人は少ないということも書かれていて「アメリカ人も同じか」と暗澹たる気持ちにもなった。
 つまるところこの本は、ヴォネガットがついに人類を見限ったことを宣言し――だから彼にはもはや「国がない」――、ろくでもない世界ができあがってしまった過程に「心ならずも」加担した責任を悔い、生まれ来る後世の人間に詫びるために書かれたと言ってもいい。「歴史が始まって以来、どの時代においても、人間はこうだったのだ」とも言っているから、彼の後悔は人間として生まれてしまったことの悲しみといってもいいようなものだ。
 とりわけアメリカという国に対する嘆きは深く重い。先の大統領選によって民主主義さえ失われてしまったとヴォネガットは嘆く。その結果、不当に地位を得た権力者たちは、あらゆる差別を言葉巧みに正当化し、弱者ばかりをいじめ、たたき、地獄へ追いやっている、と。地獄とはもちろんイラク戦争を念頭においているわけだが、ヴォネガットの言う弱者にはイラクの人々だけでなく、戦場に送り込まれたアメリカ兵も含まれている。ブッシュとその政権に対する悪罵の数々はマイケル・ムーアの映画を観ているがごとく激しく直接的で、絶望的な嫌悪と怒りに満ちている。私はヴォネガットの言っていることにほぼ同意する。そして日本もまたアメリカに協力してきたことは忘れずにおかなければならないと改めて思う。
 それでも彼は「ヴォネガットらしく」ユーモアを武器にこの本を書き進める。それがこれまでもずっと彼のやり方だったし、戦い方だったからだ。そこが本当にすばらしいと思う。なぜなら彼が降伏していると書きながら、戦うことをやめていない証だから。
 彼はこう書いている。
「唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。(中略)百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっとうれしいと思う」(P.138)
 本当のことをいって、この本の内容はほとんど絶望的といってもいいことばかりが書かれているけれど、ユーモアによって戦う姿勢に貫かれているがゆえに、一条の救いの光ともなってくれる。アメリカという国に対する切り離せない愛情ともいうべきものも確固として隠されている(と私は思う)。それは腐れ縁の男女や仲の悪い兄弟みたいなものかもしれない。昔はありふれていたそういう関係さえ、今や珍品奇品となりつつあるということもまた愁うべきことなのかもしれない。
 いずれにしても、残されたものにとっては大変キツイ状況なのは間違いない。「いいこともまったくないわけじゃない」とヴォネガットが無言で語りかけてくれるような親密さがこの本には詰まっていて、そういう親密さが醸す温もりのようなものが、なんというか冬空の下で焚き火にあたった身体がじわじわと力を取り戻していくように浸透してきて、読む者を元気付けてくれる。
 サマセット・モームが晩年に書いた本に「サミング・アップ」があるが、この「国のない男」はヴォネガットの「サミング・アップ」と言って差し支えないだろう。人間とは何か?幸せとは何か?国家とは何か?権力とは何か?想像力とは? そうした根源的な問いに対する彼らの人生の精算であり、結論でもある。そういうテーマについて(限りなく)正直に書くことはなかなかに勇気がいることだと思う。その勇気にまず拍手を送りたい。そして何よりも、諧謔と批評精神にあふれたこの美しい本を最後に残してくれたヴォネガットに感謝したい。

(初出 BK-1 2007/10/14)