「サミング・アップ」  モーム著  行方 昭夫訳

この本の内容を1600字で紹介するのは不可能である

サミング・アップ (岩波文庫)
 「月と六ペンス」「人間の絆」は中学・高校の頃読んでいて、モームは好きな作家だったにもかかわらず、この本の存在をつい最近まで知らなかった。
 これはものすごい本である。64歳、当時としては人生の晩年と意識せざるを得ない年齢を迎えた大作家が、心残りなく人生を終えたいと願い、彼の人生と、人生をかけて考え続けた思考を総ざらえして1冊の本に纏め上げた−−すなわちサミング・アップ(要約)したものである。
 したがって内容は多岐にわたる。まずは彼の生い立ち。それから劇作ならびに芝居の世界についての本音。そして小説論。最後に宗教、哲学について。
 「人間とは何ぞや?」「世界は(宇宙は)どのように生まれ、これからどうなるのか」を知りたかったからこそ、モームは作家を目指したにちがいないのであり、こうした本を書きたいという野望に何の違和感もない。そして彼はそのための努力も怠らなかった。
 まず、その知識、経験の豊かさに愕然となる。実際に携わったのはわずか数年だったが、最初の職業は医者だった。彼はそこで、悲喜こもごもの患者の姿を観察し、心の動きを見つめ、人間の感情や思考について学んだ。その後戦争にも進んで従軍したが、新たな経験を積みたいという明確な意図があった。また、演劇界での成功は世界中を見て回るために十分な経済的な余裕を彼に与え、モームは最大限にそれを生かした。数ヶ国語に通じ、医学生だった彼は自然科学の基礎も身につけていた。アインシュタイン相対性理論ハイゼンベルク不確定性原理はこの本を書いた当時すでに発表されていて、モームも知っていた。その上で40歳を過ぎて、ほとんどの哲学書を読んだという。空いた口がふさがらない。
 しかし、この本が本当にすごいのはその正直さゆえであると私は思う。「誰にも自分についての全てを語ることは出来ない。自分の裸の姿を世間に見せようとした者が全ての真実を語らずに終わるのは、虚栄心のせいだけではない」とわざわざ断ってはいるが、ここまで率直に語ってくれていれば、それ以上望むことはもうあまりない。
 生きている人間や世の中について正直な意見を公に述べるのは、誰にとってもきわめて困難なことだろう。自らが命がけで掴み取った劇作や小説作法の核心をこれだけ正直に書き記すことも普通はありえない。ここに書かれているそれらのことは、どんな演劇論、小説論よりも真実であるにちがいないと私には思えた。年齢だけでなく戦争の予感といったものも影響していたのかもしれないが、後の人生は「もうけもの」といったような潔さを感じる。後世の読者にとっては奇跡のような贈り物である。
 ところで、人生は無意味であるが人はなかなかそのことを認めたがらない、というのがモームの結論である。また最善の人生は農民の人生だと思うとも書いている。私はこの意見にまったく同感である。そこに漁師を加えてもよいとも思うけれど。
さらに、一般的に価値があると信じられている宗教、真・善・美について仮説検証を重ねた結果、人間にとって唯一価値があるのは「善」だけであるようだとも書いている。それが正しいかどうかを今すぐ判断できない