「東京奇譚集」 村上春樹著

天才的職人の技に気軽に酔いしれる幸福

東京奇譚集
 この本を手に入れたのはずいぶん前のことだ(というわけでもう文庫になっちゃってるんですね)。最初の「偶然の恋人」を読み、期待通りの面白さに舌を巻き、次の「ハナレイ・ベイ」を十分に味わい、満ち足りた気持ちになり、たとえばディズニーランドで買ってもらったクッキーをいっぺんに食べるのがもったいなくて2枚食べたところでやめにして、明日また缶を開けて食べるのを楽しみにしている子供のごとく、「いっぺんに食べちゃう――いや読んでしまうのはもったいない。さあて、次はいつ読もうかな」と大事にしまっておいたのだが、あんまり大事にしすぎて、そのまま食べるのを――いや読むのを忘れてしまっていた。

 村上龍がどこかの雑誌か何かで、村上春樹のことを評して次のように語っていたと記憶している。たぶん親・龍(反・春樹)的な色合いの強い人たちによる座談会での発言だったと思う。
「春樹さんはうまいんだよね」。
 親・龍的な人たちの反・春樹的な心情は相当過激だった気がするが、このときも含めて村上龍本人が村上春樹の人や作品を悪く言ったりするのはほとんど聞いたことがない。その作風や取り上げる素材において共通するものの少ない二人だが、村上龍村上春樹をきちんと認めていると思う。

 今回、続く「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」と読んだのだが、あまりの面白さ、見事さに感動し、さらに冒頭の2遍も再読した。
 小説を読む、あるいは物語に聞き入ることの原初的な面白さの典型のひとつが間違いなくここにある。当代随一の短編作家は村上春樹だと言ってしまいたくなる。しかも、その圧倒的な面白さにもかかわらず、単なるエンタテイメントに堕していない。書き下しの「品川猿」だけ、途中で突然“羊男”的“品川猿”が登場して、ナンセンスな物語となるけれども、他の作品は「奇譚」という表題にふさわしい不思議なエピソードをモチーフにしながらも、背景として選ばれた時空は現代のノーマルな日常である。といっても何もSFやナンセンスが悪いとか価値がないと言いたいわけではない。むしろそうした要素や表現方法は元来物語に不可欠なものである。ただそこに必然性がないと物語は薄っぺらで、言うなれば子供向けの駄菓子のようなものとなる(子供にとってはうれしいけれど)。
 誤解を恐れずに言えば、村上春樹はポーや芥川の正統を継ぐ短編作家でもあると改めて思った。再び誤解を恐れずに言うなら、(本人も言うように)村上春樹を天才というのはなんだかどこか憚られる。少なくとも短編に関して言うなら、むしろ職人的な――それも天才的な職人としての作家というのがふさわしいのではないか。村上龍の「春樹さんはうまいんだよね」という評価がこうした意味を含んでいるのかどうかはわからないが、当たらずとも遠からずであると私は思っている。
 吟味した素材を使って、手入れの行き届いた道具を用い、細心の注意と集中力を注いで作品を作り上げる。人々はそれを棚から取り出し、手にとって、矯めつ眇めつ眺めたり、時には使ってみたりする(職人の作った道具も今では美術館に収蔵される場合も少なくないが)。
 考えてみれば、もともと物語とはそんな愛着のある身の回り品のようなものだったのかもしれない。一通り楽しんだら大事にしまって眺めてるのも悪くないが、それが見事なものであればなおのこと、ときどき取り出して使ってみることの贅沢は至福の時間をもたらす。
(初出 BK-1 2008/12/29)