「逆シミュレーション音楽」をめぐって(2)

 その2 西洋音楽とロマン派

 三輪さんにとって自明だった次の2つの前提を「疑ってみる」ことから「逆シミュレーション音楽」が発想されたという。
(1)西洋音楽が音楽のすべてである
(2)ロマン派の音楽概念が西洋音楽のすべてである
 クラシック音楽に興味があって、西洋音楽史を少し知っていれば、確かにこの2つの前提が自明のことだと言われても違和感はない。

西洋音楽の歴史

 現在も演奏される西洋音楽として最も古いのは、6〜8世紀ごろにかけて諸地方の教会で奏されていた聖歌を収集し編纂したとされるグレゴリオ聖歌ということになるらしい。そこに新たな音楽が生み出され付け加えられるのは9世紀以降であり、われわれ現代人にも親しい最も古いクラシック音楽ということになると、「バッハ」だと言っても、そうまちがいではないだろう。バッハは1685年生まれだから、現代人にとっての西洋音楽の始まりはたかだか300年前にすぎない。

ロマン派

 どこ(誰)からがロマン派か、については当然のことながら諸説あるが、ロマン派の作曲家の最初の1人としてシューベルトをあげることに反対する人は少ないだろう。シューベルトが生まれたのは1797年である。1828年、わずか31歳でこの世を去る。
 ロマン派を代表し、調性音楽から無調の音楽へと橋渡しをしたヴァーグナーが没したのは1983年だ。後期ロマン派の1人ブラームスが死んだのが1897年。リヒャルト・シュトラウスは長生きした(1949年没)けれど、最後のロマン派の1人、ヴァーグナー党のブルックナーは1896年に亡くなり、ワルツ王・ヨハン・シュトラウス二世は1899年に没している。そして、おそらくロマン派の系譜に連なる最後の大作曲家は、現代人に大変人気のある二人−−マーラー(1860-1911)とラフマニノフ(1873-1943)だろう。
 したがって、ロマン派と呼ばれる作曲家が活躍した時期は、ほぼ1800年代のわずか100年間にすぎない。
 それにしても確かに、ロマン派はサッカーでいえば一時のレアル・マドリーもしくはブラジル代表セレソン。野球ならV9巨人もしくは(昨年までの)ヤンキースといったところか。そうそうたるメンバーだ。上述以外日本でポピュラーな作曲家だけあげても、
 ショパン    (1810-1849)
 メンデルスゾーン(1809-1847)
 シューマン   (1810-1856)
 リスト     (1811-1886)
 ベルリオーズ  (1803-1869)
 ヴェルディ   (1813-1901)
などがいる。さらに、ドヴォルジャークチャイコフスキーも広い意味ではロマン派の音楽家に入るだろう。ショパンなしでは多くのピアニストは生きてゆけないし、明日からヴェルディが演奏禁止などということになれば歌手たちの半分は職を失うかもしれない。

なぜ「ロマン派」だけなのか?

 私は三輪さんの2つ目の前提がなぜ「ロマン派」だけに限定されるのかと話を聞きながら不思議に思った。今現在世界の演奏会で奏される音楽の中で「ロマン派が圧倒的1位を占めている」という点に異論はないが、バッハはともかく、モーツァルトベートーヴェンだって、たった二人でも相当にガンバッテいるわけで、彼ら「古典派」も含めるべきではないかと思っていた。
 家に戻って、わが敬愛し、尊敬する吉田秀和さんの「LP300選」を読み返してみたら、一括りににして語るには「あまりにも大きな深淵がある」としながらも、調性の原理によって書かれた和声(harmony)的な音楽の時代として、18・19世紀を古典・ロマン派の時代と一括し、20世紀の「調性から開放された」音楽と分けるのはむしろ便利でさえある、というような記述があった。三輪さんの前提もそういう意味なのかもしれない。
 また、バッハやモーツァルトベートーヴェンの曲でも現代人に人気のある曲、フレーズの多くが「ロマン派的」であるという指摘ととらえることもできる。

人は「ロマン派的」音楽を好む

 「ロマン派的」とは何か?といえば、それはスパイスとしての不協和音も含めて、和声すなわち耳に心地よいハーモニ−−時代によって好みが変わるようだが−−を最上とする嗜好ではないか。その意味で、現代のわれわれが好むクラシック以外の音楽、つまりジャズやポップスもほとんどは同じ理論の上に立っているし、クラシックよりずっと単純で無自覚で音楽的にはおそらくなんら新しいものを付け加えない。クラシック音楽の最先端こそ、音楽表現の最先端でもあるのである。三輪さんもまさにその中におられるわけだ。
 こうした類型に組み入れられない音楽が現代にあるとすれば、確かにそれは、西洋の文化とは別に−−音楽的に言うなら対位法的にというべきか−−発展してきた西洋以外の民族固有の音楽ということになるのかもしれない。
 いわゆる西洋クラシック音楽は世界中の主要都市で頻繁に演奏会が行われ、CDやDVDは世にあふれ、CMやTV・映画などあらゆるメディアを通して耳にしない日はない。この数百年に限って言えば、世界の中心は欧米であり、今ならG8(+Bricsか)。まさしく西欧的な資本主義的消費競争社会こそが世界そのもののように錯覚する。日本は地理的にも民族的にも西洋ではないが、それ以外の点ではまさに西洋の一員、それも主要な一員である。
 したがって私たち日本人にとっては西洋的な世界以外はなかなか見えにくいし感じにくい状況にある。よくよく考えれば当たり前の話だが、今でもアラブやアフリカではわれわれが聴いたことのない音楽が日々奏されているに違いない。そこで奏されている音楽には、われわれにとっては未知の音楽=ありえたかもしれない音楽が、ありえているかもしれない。ひょっとしたら世界の民俗音楽を収集し続けた小泉文夫さんの考えていたところもそういうことと無縁ではないのだろう。読んではいないが小泉さんの著作に「空想音楽大学」という本がある。ぜひ読んでみたいと思う。
小泉文夫著作選集(4) 空想音楽大学
 ただ、私自身は、所詮同じ人間であってみれば、その発展のしかたにもさほど大きな違いはないと基本的には考える。
 仮に不快な音楽を好む民族があらわれたとしても、それが長続きするとは思えないし、不快さや緊張をもたらすものが好まれるのは、平和や快適さにあきあきした時代にほかならない。表現においては、快適さをより効果的に導くための手段の1つと考えるのが自然だと思う。
 つまり、心地よくない音楽が好まれることがあるとしても、ほかのことと同じように人間のぜいたくで過剰消費的な行動や気分の1つにすぎない気がする。ただ、そういう好みが混ざって複雑化することは、一時的というだけでなく、そこで生まれた多様性が発展や進化につながるという側面があることも事実である。少なくとも、ここまで人類は発展してきたように見える−−今後はともかく。
 ところで、もし本当に、人間の自然な好みに基づく最上の音楽たちが19世紀に達成されてしまったとするなら、音楽はすでに衰退に向かっているということになってしまいかねない。それは音楽にとって経験したことのない危機を意味する。そこに音楽家の(三輪さんの)悩みもあるし、それを確認し、検証し、新たな可能性を探ることで「人間が何であるのか」を探求することこそ音楽家の本当の仕事でもある(と私は勝手に思うのです)。
 走り始めてしまった以上、新しい音楽を求める人間の旅は、人間が存在する限り終わららないとも私は思う(それは多分音楽に限った話ではない)。この世には、これまでも、これからも「音」がある。たとえ人類が滅びても、宇宙が終わらない限りは。
 ちなみに前出の「LP300選」で吉田秀和さんが、最初に選んだのは「宇宙の音楽」である。レコード(CD)はもちろんない。
(初出 Hatena Diary“悠々楽園” 2007/7/17)