「また会う日まで 下」 ジョン・アーヴィング著 小川 高義訳

事実という「曖昧な記憶」によってこの世界が形作られている以上、唯一絶対の真実などはない。自分の物語を「信じられる」ようになれば、すなわちそれが真実となる。

また会う日まで 下
 上巻の後半でもすでに母・アリスの影響は薄くなって、物語の中心はジャック自身へと移っていたが、下巻ではアリスと入れ替わるように、父・ウィリアムの影が次第に濃くなってゆく。
 断片的に語られるアリスの話と4歳の幼児だったジャックの曖昧な記憶によってしか登場しないウィリアムは、登場人物というより背景もしくは幽霊にすぎなかったといってもいい。からだじゅうに音符の刺青を施した、信仰に篤い教会オルガニスト(これまたなんという思いもよらない設定だろう!)。父はジャックを捨てたのか? 時が経ち、友人や家族も去りゆき、記憶もさらに不確かさを増してゆく。再び父に会えないままでは、ジャックが真実を見出すすべはない。
 この世界は実は「曖昧な記憶」によって形作られている――それがこの作品のテーマの1つでもある。下巻でジャックは「時系列で過去を語る」という治療を、精神科医のもとで受けることになる。時系列で語る過去がすべて事実かどうか、そもそもただ1つの「事実」なんてものがあるのかどうかさえ疑わしい。というか誰にも、何が事実かなど「今となっては」わかりはしない。ただし、わからないにしても、それが自分にとっての事実――というより「真実」といったほうがいいかもしれないが――だと納得するためには確かに有効な方法だと思える。物語を読む、という行為もそのことと似ているかもしれない。ひょっとしたら物語を書くということも。
 結局のところ、人は誰も迷いながらも、自分の来し方に折り合いをつけ、行く末を生きるしかないのだ。この世界が、事実と呼ばれる「曖昧な記憶」によって形作られているなら、真実は唯一つではない。どんな真実もありうるだろう。しかし、「自分の物語」を事実として受け入れ、真実だと信じることができるなら、すべてが真実にもなりうる。
 父の愛情を信じきることができなかったジャックは(ひょっとしたらアーヴィングも)、アカデミー賞をもらうほどの成功を成し遂げ、富と名声を手に入れても、どこかふらふらと不安にさいなまれ続けざるをえない。
 この物語のラストで、ついにジャックは、ジャックにとっての「真実」を見出すに至る。自伝的な要素がいくつも盛り込まれたこの物語を書き上げたアーヴィング自身も、彼にとっての「真実」を発見し、腑に落ちたということのようだ(詳しくはあとがきを参照されたい)。

 小説の面白さという点では、上巻のほうがより面白かった。
 上巻のエマとオーストラー夫人、さらにはセントヒルダ校のあまた登場する先生たち。ひと癖ある同級生たち。山ほど登場しては意外と簡単に消えてゆく――実際のところわれわれ人間のだれもが同じことなのだが――これら愛すべき人々が、この小説でも最大の魅力の1つであることに異論はなかろう。人物像はどれも際立っていて容易には忘れられない人物ばかりである。どの1人を描くにも手抜きはない。下巻で新たに登場する医者たちも魅力的だが、教師や刺青師たちに比べると、描写が足りていないきらいがあると言ったら言い過ぎだろうか。
 もう1つだけ付け加えるなら、アリスとウィリアムのそれぞれの虚実を逆転させる話の展開は−−それもアーヴィングの小説の魅力だと十分認めたうえで――今回は、それにしてもやや強引過ぎる気がした。一貫性を保つためと感じてしまう説明的な文章がいくつか気になり、アーヴィングのこれまた大きな魅力である寓話性が、下巻では希薄に感じられることがないではなかった。<今>に近い時間を扱っているせいもあるかもしれない。自伝的な要素が多く盛り込まれたせいもあると思う。しかしまあ、どれもこれも「上巻に比べると」であって、この本を読む時間は至福の時間だった。賛否両論喧しかったという作品の長さは、私にはむしろ喜びでさえあった。感謝。
 アーヴィングも今年66歳。本作に6年半を要したそうだ。次の作品が読める幸せが訪れますように。
(初出 BK-1 2008/07/01)