「アンネの日記 増補新訂版」 アンネ・フランク著  深町 真理子訳

過酷な運命と引き換えに残された人類の宝物。戦争の理不尽さを嘆くだけではもったいない。

増補新訂版 アンネの日記 (文春文庫)
 アンネ・フランクという少女の、13歳から2年余りにわたる日記が貴重なのは、それがアンネとアンネの家族および彼女を取り巻く人々の死と引き換えにこの世に送り出されたものだからということは疑いようがない。
 確かに、その1点をもってしても、おおむね平和のうちに長い間暮らしているわれわれが耳を傾けるべき言葉がこの日記にはいくつも含まれている。

 というわけで私もまた、この、おそらくは世界一有名な日記を、「第二次大戦におけるユダヤ人への無差別的な迫害に対するけなげな少女のふるまいや感想」、あるいは「理不尽な運命への怒りや悲しみやはかない希望」といったものばかりが綴られているのだろうと漠然と考えながら読み始めたのだった。
 しかし全然違った。
 アンネという少女は、おしゃべり好きで、気が強くて、現代のわれわれの身近にもときどき見かけるようなオシャマで明るい女の子だった。彼女は「文章を書くことで生計を立てたい」と自分の将来をすでに明確に思い描いていた。利発で健康な普通の女の子だ。

 アンネの生まれた1929年は、イプセンの「人形の家」出版のちょうど50年後だが、当時でもまだ女性が自立するという考えはヨーロッパでも進歩的かつ少数派だったようだ。
 そんな中、家庭におさまり家事や子育てだけをするのではなく、家を出て人の役に立ちたいとアンネは強く願っていた。
 そして何より私の印象に強く残ったのは、彼女がものごとを「自分で考える」人間だということである。それがこの日記を、他にも数多く存在するであろう同時代の日記と一線を画し、60年以上を経た今も世界中の人々が共感をもって読み継いでいる最大の理由だと思う。

 また、普通の思春期の少女の心のうちをかなり正直に記しているという点も、記録として貴重だろう。心だけでなく身体の変化へのとまどいや興味についても赤裸々に――発表するつもりではなかったわけだから赤裸々も何もないわけだが――記している。アンネの性の成熟に対するとらえ方はとても前向きで、生きることの肯定と重なっている。彼女にとって女性として生きることは誇らしく美しいものだった。
 思春期の性にとまどう少年少女たちにとっても貴重な示唆に富んでいる。

 もうひとつ、二千年以上にわたって世界史の中でも特異な運命をたどった――その悲劇のピークがヒトラーナチス・ドイツによる大虐殺である――民族であるユダヤ人の生活や世界に対する見方の一端を、ごく普通のユダヤの家庭の、普通の少女の目を通して知ることができるということもこの本の特筆すべき魅力だと思う。少なくとも私には興味深かった。
 「ひとりのキリスト教徒のすることは、その人間ひとりの責任だが、ひとりのユダヤ人のすることはユダヤ人全体にはねかえってくる」という教訓がユダヤの人々に語り継がれているそうだ。
 あるとき、ドイツを逃げ延びオランダにやってきたユダヤ人は戦争が終わればドイツに戻るべきだという風潮があると知り、アンネもまたそれがどうやら真理であるらしいと認めざるを得ない。
 だが、「善良で、正直で、廉潔な人々」であるオランダ人までもが、ユダヤ人だというだけで色眼鏡で見るということにアンネは納得できない。大きなリスクが伴うのを承知で、アンネたちの隠れ家生活を支えてくれている人たちもまた愛すべきオランダの人たちだからだ。
 アンネはこう書いている。
 「わたしはオランダという国を愛しています。祖国を持たないユダヤ人であるわたしは、いままでこの国がわたしの祖国になってくれればいいと念願していました。いまもその気持ちに変わりはありません!」(1944年5月22日の日記)
 オランダを「美しい国」と呼ぶアンネの一番の願いは「ほんとうのオランダ人になりたい」(1944年4月11日の日記)ということだった。
 民族間の歴史的な確執は世界中に存在する。今後も存在し続けるだろう。個と個の間では軽々と乗り越えられることも多いのに、民族と民族、国家と国家の間ではしばしばそれは容易ではない。
 私がオランダ人なら、涙なしにアンネのこの言葉を聞くことは難しい。だが現実にはしばしばこういうことは起こりうる。

 「隠れ家」での2年にわたる逃避生活は、物質的にも精神的にも次第に困窮を極めていく。同じ戦時といっても、ユダヤ人でないオランダ人やドイツ人とは全く異なる苦しさだった。
 アンネの書きたかった大切なことのひとつが、そうした過酷な状況にあっても自分たちにはごく普通の日常があり、希望があったということなのである。
「毎週の最大の楽しみと言えば、一切れのレバーソーセージと、ばさばさのパンにつけて食べるジャム。それでもわたしたちはまだ生きていますし、こういうことを楽しんでいることさえちょくちょくあるくらいです」(1944年4月3日の日記)
 1944年7月22日の日記では、ヒットラー暗殺の未遂事件に触れ「やっとほんとうの勇気が湧いてきました。ついにすべてが好調に転じたという感じ」と希望を熱く語ってさえいた。
 しかし、私にはこの事件がアンネたち隠れ家の8人と支援者たちが連行される引き金になったという気がする。ヒトラーはさらに国内反対勢力への警戒を強め、ユダヤ人へのお角違いの憎悪を増幅させた可能性があるからだ。
 わずか2週間後の8月4日、車から降り立ったゲシュタポに連行され、数日後にはアウシュヴィッツに送られる。その後移送され、極度に衛生状態が悪かったというベルゲン=ベルゼン強制収容所で、数日前に先だった姉のマルゴーを追うように蔓延したチフスのためにアンネも亡くなったそうだ。1945年2月から3月の頃と推定され、これはイギリス軍による解放のわずか1か月前のことだという。
 8月1日付の最後の日記でも、自分の内に抱える矛盾について、アンネはいつもと同じようにどこか楽しげに思索を巡らしたり、アンネの快活さを揶揄する家族への不満を訴えたりしている。そのころにはもう危険が身近に迫りつつあることは間違いなく意識していたはずだ。いつも野菜を届けてくれていたオランダ人支援者が逮捕されるという事件が少し前に起こっており、アンネもまた大きなショックを受けていたのである。
 「隠れ家」にあっても、どこにでもいるごく普通の少女の日常の暮らしがあり、不満があり、笑いがあり、喜びがあったのだ。ただ毎日仔猫のように震えて、びくびく過ごしていただけではない。他人から見れば、短くて、悔しくて、辛いことも多かったかもしれないけれども15年余りの人生をきちんと生きていたのである。アンネはそのことを認めてほしかったのだろうと思うし、この日記がその何よりの証左ともなった。

 個人的には、以前読んだケルテース・イムレの「運命ではなく」で語られていた強制収容所での「不幸ばかりではない日常」の暮らしという感覚を、この日記を読んで再確認できたということにも意義があった。
(初出 BK-1 2009/06/27)