松本市美術館に行きました。

Uu-rakuen2006-09-18

 サイトウ・キネン・フェスティバルへ来たついでに、一度訪れたいと思っていた松本市美術館に立ち寄ることができました。
 芝生を張った長方形の中庭を持つガラス張りのこの美術館は建築としてなかなかに美しい。灯りが入るとさらに美しいと聞いていたのですが、残念ながら時間が合いませんでした。
 館内の廊下や階段の板張りはあめ色に磨きぬかれ、美術工芸品のようなつややかさで、靴のまま歩いていいのかと戸惑うほどです。
 この美術館の売りは、松本出身の2人−−世界的に評価の高い現代アーティスト草間彌生と、書家・上條信山です。草間彌生については、現代アーティストである以上好き好きもあると思いますが、インパクトは強烈です。常設展「魂のおきどころ」の中の、部屋として表現された異空間は面白かった。1階の売店には、有名なパンプキンなど草間アートを使ったグッズがあって(結局買いませんでしたが)、見ているだけでも楽しかったですね。。
 売店から中庭に抜ける出口の横に、ジュースの自動販売機とベンチがあるんですが、よく見たら、これも草間アートによく登場するドット模様で、たまげました。サインもありました。

「上條信山 生誕百年記念展」

 ちょうど企画展の最中だったので、正直、書に特別な関心があるわけでもないのですが、せっかくなので観てみました。
 なるほど、すばらしい書であることは、特に知識や造詣のない私にもわかります。「臨書」というそうですが、遠い昔の中国の書家の字を真似るという修行をされていた頃の「若書き」から、まるで絵のような独自の力強い書まで。長生きをされた晩年の書はまた単純になっていくところも面白かったです。また私には、数は少ないのですがひらがなの流れるようにやさしく美しい字が気に入りました。
 インタビューと制作の様子を収めた20分ほどのVTRも観ましたが、彼は、「書はリズムであり、紙に書かれた音楽である」というようなことを言っていたのが(うろ覚えなので正確でないかもしれません)、面白かった。また、「字はただ真似をするのはだめだ。臨書をして、本質をつかんだら、それを自分の感性で展開することが重要」(これも正確でないかもしれません)というようなことも語っていました。まさにそういうことなのでしょう。彼が産み出す書は、たとえば布と大筆という、ただ美しく字を書くには有利とはいえない素材と道具を使い、磨った墨がぽたぽたと零れ落ちようとも、そこに残された線はやはり美しい。
 ところで、そうしてこぼれた墨の跡なども含めて、書は芸術として存在するわけですが、そこには意図できない偶然が確実に含まれてもいる。書の場合には形として残るので、何度も繰り返し書いて、自分の制作意図に合致したもののみを残すということになるのでしょうが、制作者自らがコントロールできない芸術とは何だろうというようなことを考えたりしました。
 もっとも音楽などでも、好き勝手にやっていいような曲が現代音楽には存在しますし、そういうある意味特殊な曲でなくとも、音の場合は、録音しない限りは消えてなくなる−−聴く者の中には記憶として残りますが−−わけで、良くも悪くもアクシデントに見舞われる可能性を秘めており、奈落に落ちかねないきわどい稜線の上を技術や知恵、意思や気力で歩いているようなものなのかもしれない。やり直しはききませんから。そういう中で頂まで歩き抜く−−もしくは走り抜く−−力量こそが、研ぎ澄まされたぎりぎりの芸術には要求される。そうした運動と、運動を取り巻く時空の総体の中に取り込まれた偶然の出来事は、すでに偶然ではなく必然へと変容させてしまうくらいの力を、真の芸術(家)はもちうるということなのかもしれません。

松本市美術館ホームページ
http://www.city.matsumoto.nagano.jp/artmuse/