亀田大毅対バレリオ・サンチェスの試合をTVで観ました。

 ご存知亀田3兄弟の次男。弁慶のいでたちで登場する演出は私の好みではないが、そのボクシングは実に立派なものだった。

「前へ」

 とにかく引かない。一歩も引かない。常に「前へ」。「前へ」といえば明治大学ラグビー部の故北島監督の掲げたスローガンであったなあ、なんてことを思い出しながら、すべてのスポーツに通ずる精神−−スポーツだけでもなさそうだ−−だと改めて思った。
 そうはいっても、亀田はボディにパンチをもらっていたし、相手のアッパーはいくつもヒットしていた。しかし彼はガードを下げず、ガードの間を縫って顔面にもパンチをもらっていたが、まったくダメージは無いように見えた。それは彼が常に、そして最後まで前へとプレッシャーをかけていたからだ。見た目には、早いラウンドから鼻血が出ていたし、後半は右目の上もカットされ、血が噴き出した。
 しかし、その顔は終始試合へのものすごい集中を感じさせたし、彼の中では、事実まったくダメージとはなっていなかったと思う。打たせておいて切り返すパンチはダウンにはいたらなかったが、確かにいくつも相手の顔面をとらえてもいた。もどかしかったろうが、それを我慢して、冷静にやるべきこともやり続けた。傲慢さは影を潜めていた。

言い訳不要の好ファイト

 アナウンサーは「17歳で世界ランカーを相手に・・・」というようなことを、ノックアウトできない言い訳のように繰り返していて辟易した。だいたい世界ランカーといっても21位だそうだし、21位がどれほどのものか知らないが、世界チャンプが目標なら(そうじゃなかったらみんなこんなに熱くはならないだろう)、ガタガタ言うようなことではないのではないか。当たり前だが、プロである以上試合では歳など関係ない。
 試合自体は、TV局の思惑などとはまったく無関係なすばらしい内容だった。相手のサンチェス選手もフェアで美しいファイトだったと思う。こういうボクサーと17歳で真剣勝負を戦えたことは貴重な経験だろう。
 それにしても、亀田3兄弟のリング外での言動やパフォーマンスは、いったいどこまでが本当なんだろうか? バラエティ番組などで見る興毅選手はなかなか礼儀正しかったりする。リングの内と外の間のギャップが大きすぎて、幻惑されてしまうが、希代のエンターテナーなのかもしれない。

「勝負の本質」と「プロスポーツという仕事」をめぐって

 何にせよ、観る者をこれだけ熱くし続けるというのは簡単なことではない。そういう場合、観客には観えないところで(本人の意識はともかく)並大抵でない努力が払われていることは間違いない。
 この試合、結局判定で大毅選手が勝利を収めた。判定をめぐって試合後観客の一部に乱闘があったらしいが、格闘技における判定など、よほどの大差でない限り、じゃんけんで勝負を決めるようなもので、本当の勝ち負けとは何の関係も無い。
 もちろん、プロ・ボクシングは興行という面も持つ社会的な活動でもあるから、それでもって受け取る金が違ったり、その後の世界ランクが変わったりするだろう。
 ドイツ・ワールドカップで当時ブラジル監督だったパレイラが言っていたように、「美しいサッカーをしたからといって、負けては誰も褒めてはくれない」というのは一部は事実だろう。過去の栄光を人々が振り返るとき、スポーツの世界(だけではないかもしれない)では、しばしば、結果を取りまとめ「通算成績何勝何敗」とか「優勝何回」などと語られる。そのとき1つ1つの試合が美しかったかどうかなどはまったく数字に表れない。だが、私が言っているのはそういうことではない。とりわけ戦う当事者にとっての本質的な勝ち負けとはまったく無縁だと思う。世間的な成功とは別のことだ。
 スポーツだからルールがある。ボクシングは採点競技で、特に最近はラウンドごとに優劣をつける方向にあると聞くから、なおさら(判定の場合は)勝敗がつく。私は素人だから、採点の仕方の詳細はわからないので、この試合の結果がどれほど正確か不正確かも判断できない。
 ただ間違いなく言えるのは、両者に決定的なダメージもなかったし、手数でも大差は無かったし、どちらが勝者でもおかしくない試合内容だったということだ。戦績には勝ち負けがつくけれど、それは戦うものの誇りとは関係の無いことだと思う。だいたい勝ち続けることなどできないのだし−−あのオスカー・デラホーヤだって無敗ではない−−、判定で敗れた1敗に、どれほどの意味があるだろうか。なんならいつ再戦してKOで決着をつけてもらいたいとは思う。
 それはそれとして、すばらしい試合を見せてくれた二人のボクサーに敬意を表したい。面白かったです。