竹下は浮かれない〜女子バレー考

私は女子バレーがあまり好きではない。

 正確には女子バレーを取り巻く環境があまり好きではない。
 今やってる世界バレー。少し前にやってたのは予選なんだろうか? 
 国際的にメジャーなスポーツの世界レベルの大会は、まずオリンピック、それから世界選手権だろう。
 たとえばサッカーは、もちろんワールドカップが国対抗戦では最も権威のある大会だ。世界選手権というのはきかないし、たぶん、間違いなくないと思う。
 バレーにはワールドカップも世界選手権もある。「カップ」とは勿論優勝カップの「カップ」で、その「カップ」を賭けた大会ということに違いない。世界選手権には優勝カップはないのだろう。
 最近は他のスポーツでもそういうケースは多いから、おそらくスポーツで視聴率を上げたいメディアと選手強化費用を稼いだり(だと信じたいが)、メジャー化をはかりたい(同じことだ)協会が結びついて、いくつもの世界戦をつくっていて、結局どの大会で勝った者が本当の世界一なのか皆目わからなくなってしまっている。
 その最たるスポーツの1つが女子バレーで、それを引っ張っているのが日本のメディアだという気がしている。
 それでもってその手に乗って、浮かれているように見える女子バレーというのが好きになれない。選手に罪はあまりないとは思うので、スポーツは何でも好きな私は「ニッポン・チャ・チャ・チャは嫌いだとか言いながら、結局見てるんじゃない」と家人にからかわれながら少しは見てしまう。
 だが、たとえば背中の名前の表示。少し前に見てびっくりした。「KAORU」とか「ERICA」とか、「ここはいったいどこだ?」と言いたくなる。世界中そういう決まりにでもなったのかと思ったら、そんなのは日本だけのようだ(高橋みゆきの「SHIN」ていうのは別の意味でわけがわからない。本人にとっては何か意味があるのだと、どこかで言ってたが)。
 瑣末なことかもしれないが、優勝争いにからむような力は今はまだ到底ない状態にもかかわらず、そういう浮かれたようなところが私は気に入らないし、日本だけホーム戦ばかりが続く圧倒的に有利な試合環境でさえトップ3に入れない、それが大きな理由のひとつだと私は思っている。何でこういうことを世界が認めているのかも私にはわからない。金さえ出せばこういう不公平がまかり通るのだろうか?他者から与えられた恵まれすぎた条件の中から本当に強い者が生まれてきたためしはない。

試合中の竹下は笑わない

 背中の名前だが、私の見た限り2人だけ苗字を書いている選手がいた。1人は杉山。そしてもう1人は「予想通り」セッター竹下である。これはうれしかった。「まさか竹下まで名前じゃないよな」と願うようにテレビを眺め、「やっぱり」と安心させてくれたからだ。圧倒的に背が低い竹下は、一時不要論まであったが、今の女子チームには竹下は不可欠であると私は思う。竹下が居なくなったらこのチームには「芯」というものがなくなる。そりゃあ今の時代セッターだって背は高いほうがいい。中田久美より低いのだからその点では後退でさえある。世界一のチームにはなれないかもしれない。それでも今は竹下をはずすわけにはいかない。
 チームスポーツにはリーダーが必要だし、強い信念を持った人間が必要なのである。たとえば、今のサッカー日本代表にはリーダーがいない。強くなれない大きな理由の1つがそこにあると思う。
 選手としての高橋はとても魅力があるし、菅山は選手じゃなくても魅力がある。だからメグやカナがいなくても客は来るし視聴率もそれなりに稼げるだろう。しかしこのチームには竹下が必要だ。竹下のバレーには、はっきりした哲学があると感じられるし、それはチームを引っ張ることができるくらい確かで厳しいものだと伝わってくる。ただ好きだから一生懸命やっているというのではなく、バレーについて、あるいはバレーをやってる自分(の生き方)について真剣に考え悩んでいるかどうかといったことだと思う。