「ダイ・ハード4.0」観ました〜ただ面白ければいいとばかりも言ってられない。

 少し前になりますが、「ダイ・ハード4.0」を観ました。
 「ダイ・ハード」シリーズのファンは世界中に山ほどいると思いますが、私もその1人です。
 しかしながら、これまで一度も映画館で観たことがなかったので−−おそらくこのシリーズもこれで最後でしょうし−−ぜひ劇場で見たいものだと足を運んだのでした。
 映画の性格上ストーリーにはあまりふれるわけにはいきませんが、冒頭の数分間の銃撃戦のすさまじさ、文字通り耳をつんざく銃声・破壊音には度肝を抜かれました。なぜそこまで激しくする必要があるのかと、ドルビーシステムの大迫力で身体にビンビン響く振動を感じながら辟易しました。
 本当の戦争や暴力を表現するにはこのくらい−−あるいはもっと激しいのかもしれないけれども−−やらなくちゃ、というリアリティの追求なのかもしれないけれど、やはりちょっとついていけない気持ちになりました。
 アクションのアイデアなどには相変わらずすばらしいと思わされるシーンがいくつもありましたが、人にはどんなことにも慣れてしまうという能力がありますので、初めて見たときの衝撃には及ぶべくもありません。それはやむをえないことです。
 このシリーズの最大の魅力の1つは、なんといっても主人公ジョン・マクレーン性格設定にあると思いますが、今回は「英雄」に関するせりふがまさに正当なハードボイルドの趣で、ぐっときましたね。
 細かいことを言っても仕方ないのは承知の上ですが、マクレーンはサイバー・テロリストとの戦いの中で、娘を救い出すために、少なくとも1000人は善良な一般市民を巻き込み、そのうち少なくとも100人くらいは死んだにちがいありません。今まではそういう理不尽な人殺しを感じさせるシーンは多くなかったと思うのですが、今回はゴジラにも負けないくらいその点については無自覚な−−リアリティーに欠ける−−つくりになってました。
 全体としてつまらなかったとは言いませんが、またファンとしては残念な思いもとてもあるんですが、そろそろ本当に「ダイ・ハード」は終わりにしたほうがよさそうです。観て損をしたとは思わなかったけれど、それもレイトショーで入場料が1000円だったという理由による部分が大きい気がします。
 永遠に終わらないかのような膨大なエンド・クレジットを眺めながら、「それにしてもこの映画を作るのはどれだけ大変だったろう」という思いに駆られました。これほど多くの人たちの人生の少なからぬ時間とエネルギーを集約し、膨大な金を使い、すさまじい破壊の上に成り立っているということの証左でもあります。少なからぬ雇用を創出し、映画会社に莫大な利益をもたらした反面、映画とはすなわち虚構にほかならないという意味でムダの山を築いたとみることもできなくはない。それは映画に限らず他の芸術のどれもが多かれ少なかれ抱えている一面でもあります。否定ばかりするつもりはありません。しかしそれでも、このエンド・クレジットが意味する過剰すぎるエネルギー消費を目にして、最近の私は途方に暮れてしまいます。
 ビートたけしが次のようなことを言ってました。「映画っていうのは、最も贅沢で金のかかる、究極のプラモデルだと思うんだよね」。その通り。金さえあれば監督の求めに応じて、スタッフはどんなものでも作ってくれるでしょう。
 映画も含めて芸術は人間の本性の一部だと思うので、たとえどれほどのムダを内包していようと、それをなくしてしまうことは不可能です。そんなことをしたなら人間は死んでしまうでしょう。
 であるなら、われわれ観客は、かけたエネルギー(こうむった負荷)に見合うだけの質を提供してくれることを期待するしかないし、作り手にもまたそれを意識してもらいたいと願うのは、あながち不当なことでもないはずです。その意味で、作り出される作品は厳しい目にさらされるべきだと思うのですが・・・現実はなかなかそうはならないんですね。まあ、そういう事情というのは芸術に限ったことではないですし、壮大なムダがあって初めて偉大な作品が生まれるということもあるかもしれませんが・・・。