ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラの演奏とゴルフのマスターズを見て

久々の興奮。

 DVDに録画してあった、昨年12月に池袋の東京芸術劇場で行われた、グスタボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラによる演奏を見た。
 いやあ、新たな才能にこんなに興奮したのは久しぶりだ。曲目は、

  1. ラヴェル 「ダフニスとクロエ」第2組曲
  2. カステジャーノス(ベネズエラの作曲家でしょうか?) 交響組曲「パカイリグアの聖なる十字架 」
  3. チャイコフスキー交響曲第5番

 さらにアンコールを2曲。 バーンスタインの「ウェスト・サイド・ストーリー」から「マンボ」ともう1曲(DVDレコーダーの調子が悪く、これを見て初期化したため確認できない)。いやあ、熱くて、この上なく楽しい演奏会だった。会場も世紀の巨匠を迎えたかのごとく超満員だった。
 ドゥダメルは、ベネズエラ政府が青少年を非行から守るために考えた音楽教育システムである「システマ」によってその才能を開花した。この制度の目覚ましい成果として新聞などメディアにもしばしば登場していたので、存在は知っていたが、その指揮ぶりを目にするのは初めてだった。
 シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラもまたそのシステムから生まれたのに違いない。その容貌から、メンバーがベネズエラ(もしくは広く南米の人々が含まれるのかもしれない)の若者たちであることがわかる。女性も多い。クラシックのオーケストラなので正装をしているけれども、黒い髪、ドレッドヘア。肌の色もさまざまだ。
 しかし、彼らの表情は一様に美しかった。ラヴェルチャイコフスキーでは、真摯に演奏する態度はクールで、西洋音楽への敬意と憧れを感じた。ドゥダメルの指揮は、たとえるなら、バスチーユ管を率いていたころのチョン・ミュンフンに似ているかもしれない。情熱的で、奔放な感性でもって曲を推進する。ときに抑制が利かなくなりそうになることもあるが、ギリギリのところでとどまっている。指揮ぶりも音楽も若々いというか、みずみずしい。

アンコールになると演奏も表情もはじけるようにイキイキとした

 アンコールの「マンボ」はお約束らしい。みんな水を得た魚のようにイキイキと演奏していた。からだを縦横に振り、楽器を振り回し−−チェロをぐるぐると独楽のように回転させたのにはびっくりした−−笑顔がはじけ飛んでいた。
 もう一曲の方は、これはもうブラスバンドと見まごうごときパフォーマンスだった。ここはスポーツ大会のグラウンドで、彼らはマーチングバンドなんじゃないかと勘違いしかねない。ステージを自由に歩き回るんだから。
 しかし、その演奏の、目でも耳でも楽しいこと! 旧来の価値観に縛られていてはこういう演奏はできないだろう。たとえば、ヴィーンのニューイヤーコンサートも「楽しい」けれど、こちらの楽しさは全く違う次元の楽しさである。初めての経験だった。
フィエスタ!  チャイコフスキー:交響曲第5番

話は変わって、今年のマスターズ・トーナメント。

 遼君はよく頑張ったと思う。予選は通らなかったが、いくつも見せ場を作った。遼君のおかげでプレッシャーから解放された片山晋呉はすごかった。解放されたのに、最終日は帽子と背中に日の丸を貼り付けてラウンドした。私の好みではないが、「日本中の自分を応援してくれる人たちが背中を押してくれた」と感謝を口にした。
 首位と2打差の単独4位。いずれも日本人史上最高の成績だ。特に最終日最終ホールの18番のプレーには、ゴルフではひさしぶりに鳥肌が立つほどの感動を覚えた。
 入れば10アンダー。フィル・ミケルソンを出し抜いて単独4位となる。長いバーディー・パット。「右にも左にもいかないライン」と語ったとおり、カップに向かって一直線に狙ったボールは、見事にカップに吸い込まれた。ラインに乗ったと確信したギャラリーは、途中からすでにスタンディングと拍手を始める。片山もパターを水平に上げて、ガッツポーズに向けた動作。ボールが吸い込まれた瞬間、観客と片山は一体となり、18番ホール全体が拍手と歓声に包まれた。

アンヘルカブレラが優勝。初のアルゼンチン、いや南米人チャンピオンが生まれた。

 優勝はウッズでもミケルソンでもなく、3人のプレーオフの末、チャド・キャンベル、ペニー・ケリーを下したアルゼンチンのアンヘルカブレラだった。
 POに出た3人のお腹の写真を並べて、某解説者がメタボ3人組と揶揄していたが、ゴルフはスポーツではない(と私は思う)。この世でも最も大規模で金がかかる贅沢なゲーム(遊び)であると思っている。
 私自身はゴルフをしないが「上達への近道はいかに多くラウンドするかだ」と聞いたことがある。つまり身体能力はアマチュアレベルでは相対的に重要ではないということだ。だから年齢性別にかかわらず参加可能で、それでもけっこう拮抗した緊張感が味わえる。「贅沢」というプレミアム感もプライドをくすぐるのだろう。プロでもない限り金と暇がないとそう多くはラウンドできないわけで経済的に余裕があるとないでは大きな差が出る。
 それはともかく、「世界最高峰の大会」となればどんな競技でも人々は熱狂する。もちろん私も熱狂する。それはその舞台で勝つためにはものすごい努力と才能と運が必要だと知っているからだ。
 ただ、私は今のゴルフがこの世からなくなってもまったく惜しくない。むしろ少数の人たちのために、自然を破壊し、メンテナンスにも多額の金を必要とするような遊びがこの世にどうしても必要だとは到底思えない。
 マスターズの行われるオーガスタ・ナショナルゴルフクラブおよびそのコースは、その最たるものという見方もできる。まれに見るコースの美しさとコンディションの良さは、まさに多大なコストの裏返しでもある。
 その点オーガスタおよびマスターズという大会は芸術作品に似ていなくもない。こうした最高度の人工物を作ることは簡単ではないし、その秩序を維持するには大変な労力が必要だ。最高レベルの運営を長年続けてきたクラブやそのスタッフには敬意さえ感じるということは申し添えておきたい。
 そういう大会でやっと南米からチャンピオンが生まれた。遅すぎたくらいだと思う。ゴルフの功罪は別にして、南米に限らず、アフリカやアジアからも−−もしそれを望むならということだが−−チャンピオンが生まれて当然なのだ。世界は誰のものでもない。

持ちすぎていた国 アメリカの行方

 クラシック音楽と世界最高峰のゴルフトーナメント。この2つの出来事を見ながら、長らく一人勝ちを続けてきたアメリカという国の立ち位置が変わりつつあることを強く感じた。
 アメリカは先のWBCでも(トーナメント方式でベースボールの真の実力が計れるかといった問題はこの際おくとして)見る影もなく敗れ去った。100年以上守り続けたヨットのアメリカズカップも失って久しい。そして今度はマスターズ。世界経済の危機を結果的に誘導したのもアメリカ金融業界だった。
 そう考えていくと、逆にアメリカは第二次大戦以降持ちすぎていたのだということもできるだろう。クラシック音楽を享受できるくらいの資力はもっと早くベネズエラにも−−それを望むなら世界中のどの国にも−−もたらされるべきなのだ。
 今年サミットが20カ国に拡大したことに象徴されるように、世界の力のバランスは今後ますます均一化し、拡散していくだろう。エントロピーの法則から見ても、必然的なことだと思われる。つまりは時間の問題である。
 アメリカほどではないにしても日本もこれまでは「持ちすぎ組」だったに違いない。相撲の世界で日本人が活躍できないのは、WBCやマスターズと共通の事情による。ゴルフ界も日本のトーナメントは韓国選手に席巻されている。
 欧米人や日本人などが普通に享受しているような楽しみや喜びを、世界中のだれもが−−望むなら−−手にできるようなチャンスがあるべきだろう。新らしい人たちがそこに加わることで今まで想像さえできなかったような新しい感動がしばしば生まれうるということを、ベネズエラのオーケストラとマスターズが改めて気付かせてくれた。
 アメリカには、ビル・ゲイツやバフェットのように私財を有効確実に配分しなおそうとしている人たちも数多くいるようだ。どこの国にも、成功し一生涯ではとても使いきれないほどの資産を手に入れた人が少なからずいるだろう。
 「私だって最初から金持だったわけではない。人の何倍も努力したおかげで成功した。少しくらい贅沢して何が悪い」と彼らはいうかもしれない。もちろん悪くない。が、努力すればだれもが金持ちになれるわけでもない。
 世界は今でも貧しかったり虐げられていたりする人たちのほうが圧倒的に多いのだということを忘れてはならないだろう。