映画「ゲド戦記」感想 その2

「クライマックスでゲドはなぜあんなに弱いかったのか?」再考

 (映画・原作をこれから観る・読む方は読まないほうがいいかもしれません)
 パンフレットを眺めていて思ったことがあったので付け加えます。
 8/5にこのブログで、「クライマックスシーンでなぜゲドはあんなに弱いのか?」と書きましたが、パンフレットを読んでいたら「魔法を使いすぎるのはよくない」とゲドが考えていたから、と書かれていました。

「力があるからといって魔法を使いすぎないようにする」という教え

 「魔法を使いすぎない」ことは、原作(私が読んだのは今のところ1巻だけです)でも繰り返し書かれています。
 少年ゲドが、ハヤブサに変身して海を渡り、魔法使いの師匠オジオンの元へ帰り着く場面があります。あまりにも長く魔法による変身を続けていたために、ハヤブサと自分の区別がつかなくなる事態が進行して、あと一歩のところで、ゲドは人間に戻れなくなりそうになる。このときオジオンに諭されるのです、「魔法を使いすぎてはいけない」と。それ以降、魔法の力はなるだけ使わないようにゲドは努めるようになります。
 魔法使い、それも格段に特別な力を生まれ持った者としてゲドは描かれています。師匠オジオンにさえ、出会った最初から「いずれあなたの元に私がひざまずくことになるだろう」と語らせているほどです。
 アーキペラゴ多島海)に暮らす魔法使いの本来の仕事の1つは、航海する船に乗り、風をコントロールすること−−ナウシカみたいですね−−です。ゲドほどの使い手なら、風を自在にあやつり海を渡ること自体は、本当はたやすいはずなのです。
 しかし、第1巻のクライマックス、そこへ行った人間は誰一人戻ってきたことがなというアースシーの先、世界の果てへと「影」(この影は、映画のアレンの「影」とほぼ同意と考えていいでしょう)を追う旅でも、彼は準備の手間を厭わず、きちんと造られた船に帆を張り、そのほとんどを自然の風の力で進もうとします。

「魔法」とは、現代社会のあらゆる権力・権威の隠喩

 というわけで、「魔法を使いすぎない」ことは、映画でも原作でも−−そして「ナウシカ」や「ラピュタ」、「魔女の宅急便」でも−−核心の1つとなる重要な思想に違いありません。
 この映画でも、「命を大事にしないやつは大嫌い」というストレートすぎるテルーの叫びと並ぶ、重要なメッセージだったはずですが、どこかでその意識が少し足りなくなってしまったんでしょうか。パンフレットの言葉からは、ゲドが敢えて魔法を使わなかったというストーリーにしたと取れますが、映画の中ではクモの屋敷の中では魔法の力が弱くなり、ゲドはあえなく捕らえられてしまうという話でした。この間の距離を埋めるのは、観客には困難を極めます。代わりに理由もわからないまま大きな力を与えられることになったアレンという図式が、観客にとって説得力のないストーリーになってしまったという気がします。