クレーメルとツィメルマンのデュオ・リサイタル(2007/11/14・愛知県芸術劇場)に行ってきました。オール・ブラームス・プロ。

 率直に言って、予想をはるかに上回る感動でした。少なくともロマン派のヴァイオリン・ソナタに関する限り、この二人の組合せによる演奏は当代世界最高のものだと確信しました。本当にすばらしかった。
 私の席は2階のR1-11。舞台に向かって右奥、ステージの一番後ろのラインあたりの位置でした。ピアノの反響板の表が見える位置なので、ピアノの音は心なしくぐもった音に聴こえて最初は少し気になりました。ステージへの直線距離はかなり近い。ラッキーなことに、クレーメルの顔の表情も演奏する様子も上半身が見えました。そして、手元はピアノに隠れて見えませんでしたが、ツィメルマンのひじから上と足元もよく見えました。席は選べなかったので大変幸運でした。反対側だったらきっとがっかりしたでしょう。

伸びやかではつらつとしたツィメルマンの演奏

 ツィメルマンはよく完璧主義者だといわれ、事実録音で聞いてもそんな感じは伝わってきます。私も3枚彼のCDを持っています。なんといってもポーランド人でかつショパン・コンクール優勝者ですので、彼のCDではまずはショパン。それからロマン派ということになるのは自然だと思います。

ショパン ピアノ協奏曲 第1番 
 /コンドラシン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウo.
 ショパン ワルツ 第1番「華麗なる大円舞曲」
 ショパン アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ
ショパン ピアノ協奏曲 第1番、第2番 
 /ツィメルマン指揮ポーランド祝祭o.
■R.シュトラウス ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 op.18
 レスピーギ ヴァイオリン・ソナタ(1917) ロ短調
 /pf.チョン・キョンファ

 こう書いていて思いだしました。この3枚の中で私が本当にすばらしい演奏だと思ったのはR.シュトラウスレスピーギのヴァイオリン・ソナタでした!最近聴いていなかったのですっかり失念していました。しかしこれは本当にいい演奏でした。その昔FMで録音して聴いていたけれど、テープだったのでCDが欲しくて、しばらくして購入したのでした。かなりマイナーな曲ではあると思いますが、曲もとてもいい。けっこういろんなヴァイオリニストが録音を残しているようなので、ヴァイオリン曲としてはよく弾かれるものなのかもしれません。
 ついでに書くと、チョン・キョンファは私の大好きなヴァイオリニストの1人です。好きなヴァイオリニストを3人上げろといわれれば、チョン・キョンファクレーメル、そしてパールマンになりますかね。かといってフランスモノならカントロフもいいですし、古いところではハイフェッツの超人的なテクニックと正確さにはやはり圧倒されます。そうそう、五嶋みどりを忘れてはいけませんでした。
 話がそれましたが、ヴァイオリン・ソナタに話を戻すと、ピアノは本来はやはり伴奏なんだろうと思いますが、このCDでもツィメルマンのピアノは充分に主張し存在感があります。室内楽のピアニストにツィメルマンというのは、その音も演奏の質も、たとえて言うならば時速300km出るスポーツカーで公道を走るようなもので、もったいないというか、余裕綽々・自由自在といったところでしょう。その余裕がまた伸び伸びとした演奏を引き出すのかもしれません。
 この夜の演奏でも、それと同じ感じを受けました。ソロ・コンサートに行ったことがないので、どんな感じか比較できませんが、おそらくもう少し神経質なんじゃないでしょうか。この日のツィメルマンは伴奏者に回って、実に伸びやかに、楽しそうに演奏している、そんな風に見えたのでした。いずれにしてもツィメルマンは録音よりも実演のほうが圧倒的にすばらしいタイプの演奏家だと思いました。しかし彼はもう年50回ほどに演奏会を制限しているそうで、この日のコンサートに来ることができた幸運に改めて感謝するばかりです。

汲めども尽きぬクレーメルの演奏の深さ

 クレーメルはよく「鬼才」と評されます。服装や演奏する曲の選択、そして音楽活動のすべてにわたって主張し媚びない態度、常に新しい挑戦を続ける姿勢は確かに鬼才の名にふさわしいとは思います。そういう世評に関係なく、しょせん音楽も「すばらしい音楽」と「つまらない音楽」のどちらかしかないし、私自身はクレーメルの演奏したすべてが好きだというわけではないのですが、1度惹き付けられたら繰り返し聴かずにはいられなくなるような演奏が時にあります。
 たとえばアファナシエフとのまさにブラームスのヴァイオリン・ソナタのCDを持っていますが、これはしばらく聴いていませんし、ほとんど聴いていません。ひどく遅く弾かれた演奏だったような記憶が残っています。これは私の気に入りませんでした。
 一方、私の愛聴するクレーメルの最たるCDは、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲です。オーケストラはネヴィル・マリナー指揮のアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ。1980年の録音ですが、この曲では私の最もよく聴く演奏です。もちろんなんといってもクレーメルのヴァイオリンの表現力が圧倒的です。聴けば聴くほど味が出る、するめのような演奏。その繊細さと大胆さ、両方を併せ持つ演奏が生み出す表現は聴く者の心に染み渡り、わしづかみにし、揺り動かす。そういう体験はやはり稀有で貴重なものでしょう。クレーメルの演奏がいつもそうなのか私には分かりませんが、この日のブラームスでもまさにそういう体験をもたらしてくれたのでした。

圧巻は「ブラームス ヴァイオリン・ソナタ 第3番」

 白眉はやはり休憩後の3番の演奏でしょう。4楽章まである壮大な曲ですが、この二人にかかってはひとたまりもありません。軽々と演奏しきって、しかも圧倒的な感動を残して、さっさと帰ってしまった、「あ−、もっともっとできることならいつまでも聴いていたい」そんな風に思わせる演奏でした。さしずめ江戸っ子がそばか寿司を必要なだけさっと食べて「つり銭はいらねえよ」と暖簾を軽やかにくぐって帰るみたいな。
 もう出だしのスピードの速さに度肝を抜かれました。私が聴いたどの演奏より速い。館内の張り紙にはこの曲の演奏時間を「約30分」と表示していました。計ったわけではありませんがそんなに掛かっていないのではないかと思います。
 だいたい出だしが速いと言うことは、途中で極端に遅くなるようなことがあればバランスが崩れ、多分いい演奏にはならない。したがって「速い」ことはイコール演奏家の力量といってもいい。私は速けりゃなんでもいい、といっているわけではありません。
 数世代前の演奏家たち−−たとえばホロヴィッツハイフェッツにもそういう演奏が残ってますね−−は一種の遊びや余興としてテクニカルな部分のみをクローズアップして見せ、客もそれを喜んだ。しかしそこにはなんの精神性もない。ほとんどスポーツみたいなもんです。しかし、この晩の演奏の速さはそういうことではない。
 スピード感は音楽においてもそれ自体が快楽を生み出す。しかしモシュコフスキーのエチュードみたいな短いものならともかく、この曲のように何楽章もあるような曲では最初に相当速いスピードで始めた場合、最後まで統一感を維持しながら演奏しきるというのは至難のことだと思います。そこより遅くてはおかしいと感じるパッセージがあったり、逆にゆっくりであるべき部分が速すぎると感じてしまうからです。だから速いといってもそうしたバランスのぎりぎりのところに出だしのスピードは注意深く抑制されてもいるはずです。
 私がそのことをいつも感じるのはラフマニノフのピアノ協奏曲 第3番の出だしのピアノを聴くときです。私見では、この出だしの演奏スピードの速さによって全体の印象は決まってしまうと言っても過言。そして満足のいくスピードで弾けるピアニストはきわめて少ないと私は思います。
 また話がそれました。そしてもちろんこの日のクレーメルの哀調を帯びたカンタービレは私の心に深くしみいり、琴線を震わせました。その演奏のデリカシー、正確さは神がかりといってもいいほどでした。
 伴奏に回ったはずのツィメルマンは、舞台上で自分は半歩下がって聴衆とともにクレーメルを称えるその姿を除けば−−ブラームスの曲がピアノに普通よりはるかに大きな役割を担わせているからではありますが−−、まったく対等以上に渡り合っていて、しかも彼の演奏にはほとんど迷いを感じませんでした。その上先に書いたように実に伸びやかなものだから、見てても聴いてても気持ちがいい。テクニカル的にはまったくストレスを感じる必要がないでしょうから。そういうなんというか確固とした土台−−とびきり美しい音と完璧なバランスで構築された−−の上でクレーメルのヴァイオリン−−1730年製のグァルネリ・デル・ジェス「エクス・デヴィッド」−−が自在に深い陰影をもった音を刻んでいく。これを最高の演奏と言わず、何を最高というのかといいたくなるほどすばらしい演奏でした。

空席がもったいない

 こんな二人の組み合わせをもってしてさえ、室内楽のコンサートは営業的には難しいんでしょうか。ほぼ満員、ではありましたが、ところどころ空席が目につくありさまでした。これは名古屋だからなのか? 今日15日はサントリー・ホールで同じオール・ブラームスの演奏会がありました。こんなすばらしい演奏はそう聴けるものではないはずで、空席があるのがもったいなくてしかたがない。満席であることを願ってやみません。それからもうひとつ心残りなのは、オール・ブラームスのAプロではなくBプロもあって、ブラームスの1番「雨の歌」の代わりにフランクのヴァイオリン・ソナタが組まれています。ブラームスももちろん名曲ぞろいだけれども、それは私の最も好きなヴァイオリン曲の1つなのです!フランクもぜひ聴いてみたかったですね。
 いずれこの2人によるブラームス、フランク、それから当夜のアンコールだったモーツァルト(39番)などのCDが出ることを願ってやみません。