「イアマス コンテンポラリー・ミュージック コンサート」に行ってきました。

 岐阜おおがきビエンナーレ2008の一環として「イアマス コンテンポラリー・ミュージック コンサート」が大垣市スイトピアセンター 学習館の中にある音楽堂で9/23 17:00より開催された。
 スーパー陸上での朝原宣治のラスト・ランを見てから出かけたのでちょっと遅れてしまったが、まだ司会の三輪さんも舞台に上がっておらず、どうにか開始に間に合った。
 朝原のレースは、北京五輪銅メダルの4人がリレーの順番通り向かって右から、塚原・末續・高平・朝原と並ぶまさに記念碑的レースとなった。外国選手のフライングがあり、「次に朝原がフライングしたら失格になるな。そしたらもう1レース走るのかな」などと下らないことが頭をよぎったが、杞憂に終わり、朝原は塚原をかわして日本人トップの3位で最後のレースを気持ちよさそうに走り抜けた。夢の9秒台は夢のままに終わったが、とても満足気だった。

びっくり箱を次々に開ける楽しさ

 「現代音楽」というと、「難解でわけがわからない」というような先入観をもってしまいがちだ。私もそう多くを聴いてはいないけれど、ロマン派までの音楽とシェーンベルク以降のセリー音楽では曲の印象は全く違うし、ミュージックコンクレートだとかチャンスオペレーションだとか、試みとしての面白さには共鳴しながらも、「面白い?」と問われれば、CDなどで聴いているだけでは面白いと感じることはなかなか難しい。
 今回5曲の演奏を目の当たりにして、なぜ面白くないかわかった。CDで聴いていても現代音楽の面白さはなかなかわからない。パフォーマンスを含めた全体を見る、しかもおそらくは会場で生で見・聴くことで初めて本当の面白さがわかる、そういうものなのだと確信した。
 たとえば、私は高橋悠治の演奏によるジョン・ケージの「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」のCDを持っているけれど、正直言って1度聴いたら当分聴かなくてもまったく後悔はない。しかし、付属のパンフレットの写真を見れば、ピアノへのさまざまな仕掛けとその行為には非常に興味をそそられる。
 そう、現代音楽では、音楽はもはや「音楽」だけでは成立しない。音が発生する(発生しない沈黙も含めて)、つまり音楽が生まれる過程やしくみ、音を構成する構造といったものが関心の中心なのであり、音楽自体の効果は極めて限定的と言わざるを得ない。その代り、表現の自由は無限と言っていいほど拡大し、観客にとっては何が行われるのかまったく想像不可能な状況が生まれる。
 そんな音楽パフォーマンスが今回のように5つも連続で行われるとなると、観客にとってはまるで次々とびっくり箱が開けられるような面白さとなる。

この日演奏された5曲について。

 観客には曲についての簡潔な解説が載ったプログラムが配られたが、実演を観・聴いた観客の一人として、それぞれの曲について簡単に印象などを書いておく。
■音楽映画・大垣編 /安野太郎 +H.584
 演奏開始の合図と同時に舞台・客席横に8人の若い男女が散らばった。舞台上の大きなスクリーンに映し出された映像は最初はなんだかわからない。カメラが引いていくにつれて、それがJR大垣駅ビル・Apioの壁であったことがわかる。スクリーン上に映し出される映像を見ながら、そこに移った文字、景色を言葉にして、8人が思い思いに叫ぶ。
「アピオ」「ジェイアール」「白い壁」「おおがきえき」。映像は商店街、市役所、船町、IAMAS、国道21号など大垣の主要な風景を次々と映し出す。映像に合わせて、8人は思い思いの言葉、時に説明としての文章を声に出して叫ぶ。いわく「自転車で走る若者」「握手をする男の人」などなど。さらには昔の祭りの風景なども時折挿入される。
 はじめは山手線で、さらに銀座、横浜、三宅島と同様の手法で作品化され、今回が第5番だそうだ。
■The Marinba For Pleasure /TeamSZK (鈴木悦久、南真一)
 二人で演奏しているとはいえ、マリンバというれっきとした楽器を使っての演奏。各楽章ごとにルールが決まっていて、二人でゲームをしている、ということになるらしい。音楽的に面白いかというと、正直答えが難しい。が、4本ずつ持ったバチを負けた奏者が捨てるパフォーマンスなどは見てて「何の意味だろう?」と不思議だったり、二人の演奏の様子は、ときに会話を交わす友人のようだったり、また別の時には愛を語らう恋人のよう?(これは男2人なので気持ち悪いともいえますが)でもあり、普通の演奏会とは違う空気を感じて面白かった。
■鍵盤ハーモニカとコンピュータのための組曲compass》 /福島諭
 福島さんは、アニメの探偵・コナンを青年にしたような風貌で、きちんとしたグレーのスーツを着て鍵盤ハーモニカをもって登場した。しかしながら、5つの楽章の始めと途中に数回「プーッ」と吹いているだけで、その音に呼応してパソコンの中に仕組まれたサウンドをなにがしかのルールで返してくるという仕組みのようです。彼の前にはちゃんと譜面があって、演奏後の三輪さんの質問に再現性があると答えられていました。今日の5曲の中で、唯一音楽としての「美しさ」を意識した曲だったと思います。武満徹NHKの「波の盆」というドラマにつけた音楽があります。私はそれがとても好きなんですが、その曲のことを思い出しました。
■september session /みみづ(福島諭、飛谷謙介、鈴木悦久)
 何本ものコードがつながったミキサーをそれぞれ前に、大きなタンバリンを持った鈴木悦久さんとベースを持った飛谷謙介さん、さらにその間にMaciBookを見つめる福島諭さん。演奏後の説明によれば、楽器を持った二人の演奏がパソコンに取り込まれ、リアルタイムで福島さんがパソコン上の処理を加えて、音を出す(もしくは出さない)というようなことをしているらしい。音楽としては何箇所かのわずかな時間を除いてほぼハ ウリング、もしくは雑音(よくいえば宇宙的な音)に近い音がほとんどの時間を支配していた。どうなんでしょう? このユニットによる演奏は、そういうわけでほぼ即興で、リハーサルでも音を出すことはなかったそうで、即興かつ出会い頭的な緊張感がパフォーマンスの出来を左右する重要な要素であるらしい。
■「広島・長崎の原爆投下についてどう思いますか?」 / 松本ゆう(示に右)一
武満徹作曲賞(http://www.operacity.jp/concert/award/)第1位作品
 これは2008年5月に開催された武満徹作曲賞第1位を獲得した作品である。
 演奏後の三輪さんの説明によると、同賞の規定では本来オーケストラ作品にのみ応募資格があるそうで、また審査員は予め選ばれた著名な現代作曲家1人だけで、その独断で賞が授与されるのだという。開設された97年以降審査員にはデュティーユ、リゲティ、べリオ、西村朗など世界的な作曲家の名前が並んでいる。
 今年の審査はアメリカ人のスティーヴ・ライヒさんが行ったのだが、彼の作品が小編成のアンサンブル中心であることから、今年は特別に募集作品は「コンチェルトを除くアンサンブル作品」となったそうだ。もともとの賞の意図が審査委員の作品傾向に左右されていいものかとも思うが、とにかくそういう経緯で、この作品は本選演奏会当日は17人編成のアンサンブルで行われ、大垣でこの日演奏された時のようなスクリーン上映もなかった。 作曲者の松本さんは「本当は、こういう形でやりたかったんですが、本選演奏会では規定上できなかったんです」と言っていたので、この日の演奏(ピアノ2・パーカッション2・パソコン1)が作曲者が本来意図した形により近い考えて良いのだろう。
*アンケート・アート
 この作品制作の方法を松本さんはアンケート・アートと呼んでいる。すなわち「広島・長崎の原爆投下についてどう思いますか?」という質問に対するアンケートの答えを品詞ごとに分節化し、「品詞の種類により音程を決め、単語の長さを音符の長さとして、メロディを作り出す」(プログラムから引用)という方法で、テキストを選び、ルールの変数を選択すれば自動的に曲ができあがってしまう。これは、この日司会進行をされた三輪眞弘氏の「逆シミュレーション音楽」の考え方と基本的に同じといっていいだろう。
(下記のブログを参照)
◆作曲家・三輪眞弘氏のアルス・エレクトロニカ賞グランプリ受賞記念講演を聞きに行きました。 http://d.hatena.ne.jp/Uu-rakuen/20070625/p1
◆「逆シミュレーション音楽」をめぐって(1) http://d.hatena.ne.jp/Uu-rakuen/20070716/p2
◆「逆シミュレーション音楽」をめぐって(2) http://d.hatena.ne.jp/Uu-rakuen/20070717/p1
 品詞に分節し、それぞれに音程を割り当てたというのは、おそらくは音楽的な変化・多様性の面白さを演出することに寄与する。さらにたとえば助詞などは単語として短いし、文章構造上繰り返し現れるため、作品にリズムを生み出す効果を生む。音楽表現として成立させるための工夫という意味合いがあると推測する。
 結果、私の耳に届いた音楽は、力強く、リズミカルで、時に(今回のアンケートの質問にふさわしい)アイロニカルなものだった。私はオルフの「カルミナ・ブラーナ」を想起した。情熱という点では現代音楽らしく抑制された印象であるものの、そこに刻まれる律動の推進力には生命の力強さと永続的な回帰への希望とでもいった力を感じた。
 私にとってとりわけ興味深かったのは、テキスト自体には意味があるし、分節化された「語」1つ1つには意味があるにもかかわらず、その意味を記号論的に取っ払って、たんなる音の高さ・長さへと自動的に変換しながら、生み出された音楽があたかも意味を持っているかのように感じられさえするという点である。
 世界は、宇宙は、人間は、「構造」に過ぎず、意味がないのか、はたまたなんらかの意味があるのか。意味があるものを分解して意味のないものに変換し、再構築した作品に意味を感じてしまうわたしたち人間存在の不可解さ。
 「意味のある」映像(=文章である質問と回答)と「意味のあまりない」映像(=品詞名)を、ソシュール的な用語でいえば、文字としての言葉(ラング)と発せられた言葉(パロル)によって、音楽の演奏と並行して重層的に観客に提示する。しかも日本語と英語で、別々に、時には同時に。こうした舞台全体の演出は、その構成するすべての要素における「意味」をそぎ落とし、希薄化し、そうして生まれたものをただ提示して見せているにすぎない。「広島・長崎の原爆投下」の是非についての答えなどはそこにはない。
 プログラムと一緒に手渡されたアンケートは学生運動に関するものだった。こちらのサイトからも参加することができる。あなたの答えが採用されて世界中で演奏されるかもしれない。 http://www.enquete-art.org/
 東京オペラシティの上記「武満徹作曲賞」のページに詳しい記載があるが、スティーヴ・ライヒの総評のうち、松本さんの「広島・長崎の原爆投下についてどう思いますか?」に関するところだけを以下に抜粋引用しておく。
「このタイトルを初めて目にした時、私はやはりそこで一旦立ち止まってしまいました。この曲で使われている、とくに2つのテクニックについて申し上げたいと思います。一つは品詞ですね。文法構造の名詞であるとか動詞であるとか、品詞というものに着目されて、それぞれの品詞に対してある音高を当てられた。それでシステムを作られた。しかもそれだけではなく、スピーカーを二つ配して、日本語の音が一方から出て、もう一方から英語が出ると。それぞれにもちろん品詞があって、その品詞が出てくる順番は異なっているわけです。残念ながら私が所属する国家が、あなた方の国家というか日本という国家に原子爆弾を落としてしまったわけですけれども、それがちょうど対置される形になっております。そしてそれが徐々に移行していくわけですが、システムを作る、ある音楽を作るときに非常に知的にシステムを作るというのは、良い作曲家の一つの条件であると思います。しかしそれだけではなく、これが第二の点だと思われますが、それを非常にエモーショナルな力強い情感に結びつける。ただインテリジェントな音楽ではなく、それが心に結びつくというところに非常な強さを感じました。 」

大垣を現代音楽のメッカに

 今後もぜひこうした機会−−現代音楽に直接接する機会を増やしていただきたいし、一地方都市にすぎない大垣から日本や世界に向けて、先端的現代音楽が発信できるような確かな動きを築いていただけたら、市民の一人としても大きな誇りとなる。「現代音楽は客が集まらない」というのはたぶん食わず嫌いにすぎない。せっかくIAMASがあり、三輪さんがいるのだから「まず大垣市民が食ってみてはどうか?」と声を大にして言いたいし、この日は小さなホールながら終わり頃には8割がた客席は埋まっていたのではないか。面白さに気付き始めた人が増えているのかもしれない。実際のところ大して難解でもないしなかなか面白いです。