「運命ではなく」 ケルテース・イムレ著 岩崎 悦子訳

強制収容所にも日常があり幸福もあるように、日常にもアウシュヴィッツはありうる。

運命ではなく
 アウシュヴィッツでの体験を元に書かれた小説だというのがこの本を手にした元々の理由だった。私はアウシュヴィッツについてももっと多くを知りたいと思っていた。アウシュヴィッツヒロシマナガサキとともに――今やチェチェンもそこに加えられるべきかもしれない――人類が存続する限り語り継ぎ、記憶にとどめられるべき場所であるにちがいない。
 この小説のほとんどは、ナチスによるユダヤ狩りと強制収容所での出来事を、ハンガリーユダヤ人少年の目を通して克明に描くことにあてられている。しかしながら、単にその悲惨な出来事を描いたという意味でのリアリズムの作品ではない。
 連合国によって解放されブダペシュトに戻った少年は、親しい隣人であった老人から、ナチスによって父親がすでに殺されたと聞く。老人たちは悲惨な出来事を忘れて新たな人生を歩むようにと元気付けてくれるのだが、少年にはそれが、自分で考え、行動することなくただ運命を受け入れる無責任な態度にしか見えない。
「事実を忘れてしまい、想像もできなくなってしまい、そして一つひとつの出来事についても、正確にどのように起こったのか再現できないという誤りだ。そして二人はその一連の出来事が、(中略)すべて一度に、たった一回かきまわしたか、目眩がする間に起きたみたいに話していた」。
 物事は段階的に起こるのであって、一時にまとめて起こるわけではない。現在から俯瞰して過去の全てを一望の下にとらえるようなやり方は、少年にとっては明らかに正確さを欠いていると思えるし、ナチスに屈服したことを自動的に受け入れるためのまやかしにしか思えない。
 主人公の少年は強制収容所での生活についてこんな風に言っている。
「ここでの一番大きな悩みは、検問所や列車、煉瓦工場にいた時と同様、やはり基本的には一日の長さだった」
「よく考えると、僕たちは結局、何事も起こらないことを待っていた。その奇妙な待機と退屈、それが僕にとってのアウシュヴィッツの印象だった」。
 死と隣り合わせのはずのアウシュヴィッツでも日常的な時間が確かに流れていたという事実。
 この小説もまた、その時起こったこと、その時感じたことだけを記し、過去の出来事のひとつが次の出来事のひとつに確かにつながっていることを確認するように物語が進んでいく。実際われわれの生きる時間はそのように流れているわけだし、アウシュヴィッツ、ブーヘンヴァルトなどの強制収容所で1年にわたって過ごした時間を正確に記述することが、ケルテースにはまず重要だった。
 主人公の少年は、いつもよく観察し、なぜそうなるのか考えようとしている。物語の最初から、主人公の少年は「もちろん」とか「当然だけど」とか「当たり前のことだが」とか口にするが、それは彼が経験や能力が不十分で対処の難しい事柄に対しても自分で考え行動を選択する自由を持ち続けようともがいていることを示しているように私には思える。そのようにして積み重ねた時間こそが彼の(私たち一人ひとりの)人生に他ならないのではないか。消し去ったり、やり直したりもできないし、少なからず自分で選び取った人生を、「運命」などと一括りにして人ごとのように放り出してしまうわけにはいかないのだ。それが自分の行動に「責任を持つ」ということでもある。
 少年は老人たちに向かって言う。
「もし前もってどんな運命になるかがわかっていたら、その場合、もちろん、僕たちにできるのは、せいぜい時が決められたとおり過ぎていくことをながめていることぐらいしかなくなってしまう」
「それぞれの出来事だって、たまたま起きたこととは別のことが起きえたかもしれないということを認めなくちゃいけないんだ。アウシュヴィッツでもだし、たとえば、ここで父さんを送り出した時だって、そうなんだ」
 だからアウシュヴィッツで起こった出来事にも−−程度の差はあれ−−同時代に生きる人間として「責任がある」し、アウシュヴィッツでの生活にも−−程度の差はあれ−−喜びがあってもおかしくはない。生きるということはそういうことだし、そうでないなら−−全てが運命に支配されているなら−−生きている意味はどこにあるというのか。
 アウシュヴィッツにも日常や幸福があり、日常にもアウシュヴィッツは存在する。少年は自分ではいかんともしがたい閉塞した収容所生活の中でも、誰にも奪いようのない完全な自由があることを発見するが、それこそは想像することであった。
 アウシュヴィッツ(もしくはアウシュヴィッツ的なもの)が恐ろしいのは、「自分のからだがどれだけ壊れていくかを毎日まいにち観察し、毎日まいにち考えること以上に苦痛で、気がめいることはない」と少年が吐露しているように、おびただしい数の殺戮そのものばかりでなく、想像を絶する極限状況が長期化し、身体的な健康が損なわれていくと、徐々に人間の生きる力の最後の砦である「想像」する意欲も確実に奪われていくからである。想像することをやめてしまうとは、自由を完全に失うことに他ならず、希望がなくなることを意味する。そういう状況は現代のわれわれの身近にも違う形で存在しているのではないか。
 アウシュヴィッツアウシュヴィッツたらしめるかどうかは、それを運命として受け入れ抵抗をやめてしまうのか、それとも時には想像力を武器に自由を求めて闘うのか、次第なのではないかとケルテースは問いかけている。そしてもう言うまでもないが、主人公の少年はユダヤ人であることも、強制収容所に送られたことも、ただ運命だから仕方がないととらえるのではなく、自由のうちに選び取った自分の人生として受容しベストをつくすことを誓うのだ。それは自分の存在を喜ばしいものとして寿ぐことでもある。彼にはユーモアが備わっているし、いつだって人生を楽しもうとしていると感じる。表題の「運命ではなく」とはそういう意味だったのかと了解した。
 岩崎悦子さんの訳は日本語としてこなれていて、子供から大人まで誰にとっても大変読みやすいものだと思う。読者の一人として感謝します。

(初出 BK-1 2007/10/01)