「チェ・ゲバラの遙かな旅」 戸井 十月著

+チェ・ゲバラについて書かれた本を初めて手に取る読者にもお薦め

チェ・ゲバラの遙かな旅 (集英社文庫) [ 戸井十月 ]
 この本は、チェ・ゲバラという男に強く共感する作者によって書かれた伝記であり、できるだけ客観的に書こうという努力を私は認めるけれど、それでもなお本書のチェ・ゲバラはカッコ良すぎるのかもしれない。どちらかといえば、生身の人間というより英雄物語の主人公に近い。しかしそれは本書の欠点ではなく、むしろ美点だと思う。ピュアさゆえにはかなく散ったチェの人生に私たち後世の人間は強く惹きつけられる。その姿は気高く美しい。作者のほうにも「がんばってはみるけど、熱い思いが出ちゃったら出ちゃったで、それはもういかんともしがたい」みたいなポジティブなあきらめが感じられないでもないが、私は、それはそれでいい気がした。読んでいて楽しかった。
 ゲバラの遺体が発見された際(それはわずか10年前の出来事だそうだ)、インタビューに応じた娘さんは父チェ・ゲバラの最も優れた資質は?と問われて「人を愛する才能です」と答えたそうだ。
 いささか単純すぎる図式といえなくもない気はするけれども、世界中に存在する不平等と不当な貧困に対する怒りと、それをもたらした、いわゆる「アメリカ帝国主義」に対する憎しみは、チェ・ゲバラにとって自分や家族や親しい友人のことのようにリアルに感じられていたにちがいない。
 「チェ」と名乗るようになる前、エルネスト・ゲバラは医者を志し、医学部に通う学生だった。自分が喘息で苦しんできたこと、かわいがってくれた祖母が末期がんで苦しむ姿を見たことがそのきっかけとなった。その後、学生時代二度の旅で南米の国々を巡り、行く先々で人々の窮状を目の当たりにしたことが、医者の道をそのまま進むことを断念させ、革命家となることを決心させた。それぞれの決断にいたる心の動きのすべてを、この本だけから推し量ることは難しいが、ただ人の役に立ちたいというだけでは飽き足らない何かがチェの中からあふれ出し、あふれ出てしまった以上それはもう誰にも−−チェ自身にさえ−−押し戻すことはできなくなってしまったのだと私には感じられた。正義への衝動・激しさへの憧れ・強いものへの反抗、どれも若くて優秀で恵まれた家庭環境にある青年にさほど珍しくはないものだろうが、その上さらに、チェには物事の本質を瞬時に見抜く才能――人を愛する才能もその1つかもしれない――と、すかさず行動に移し、やり遂げてしまう人並みはずれた集中力が備わっていた。もちろん、そうした青年の誰もがチェ・ゲバラになるわけでも、なれるわけでもない。フィデル・カストロとの出会いが、チェの革命家への道を一気にブレークスルーさせたことは疑いようがない。
 しかし、カストロに従い、ともに成功させたキューバ革命以後、ゲバラのいわば本懐であったラテン・アメリカ統一へ向けた闘いはことごとく失敗に終わる。カストロのような緻密さや老獪さはゲバラにはなかった。また、ゲバラの成し遂げようとしたことは、カストロにとってのキューバ革命と比べて、その難易度がさらに数段高かったといっていいと思う。それは大きすぎる夢だった。
 カストロにとっては、キューバ革命キューバ人がキューバ人民とともに祖国をアメリカ帝国主義から取り返す戦いであり、その大義の正当性を貫くことはカストロ本人にとってもキューバ人民にとってもある意味たやすかった。実際に多くの国民が命を惜しまず協力した。それでもなお相当な幸運が積み重なって成し遂げられた革命だったことはこの本を読めばわかる。カストロたちにとって本当に大変だったのは革命に成功したあとの国づくりであったろう(もちろんカストロは最初からそんなことはわかっていたが)。
 だが、アルゼンチン人ゲバラにとっては、ことはそう単純ではなかった。ゲバラが見据えていたのは、最初から祖国アルゼンチンを含めたラテンアメリカ帝国主義的なるものから開放し統一するという夢だったのであり、キューバの新しい国づくりがその夢に取って代わることはなかった。
 その後、キューバを離れ本懐の成就に向けてボリビアでの活動を始めたゲバラだったが、丸一年と持たず矢折れ力尽きる。この本を読む限りボリビアでの行動はあまりに無謀だったように思えるし、あまりにあっけなく殺されてしまったように思える。その姿は新撰組近藤勇土方歳三の死に様にもダブる。英雄はいつも、時代の先頭を走り、あっという間に駆け抜けてしまう。
 革命が成就した後、ゲバラは政府の要人として国連や各国を歴訪したり、日本にも立ち寄り、たとえばトヨタの工場を見学したなどという事実もこの本で初めて知った。そういう意味でも面白かった。
 チェという男についてもっとよく知りたければ、まずは彼の残した数多くの日記や手紙を読むべきだろう。

(初出 BK-1 2007/09/18)