「69」 村上 龍著

最高に楽しい小説だと思う

69 sixty nine (文春文庫)
 こういう小説にはほかに言うことは何もない。あなたが、こんなに面白い小説をまだ読んでいないなら、一刻も早く本屋に行き、この本を買い、家に戻り、夕飯を早めに済ませてから、表紙をめくってもらいたい。くれぐれも電車の中で読み始めたりしないように。あまりに楽しくて乗り過ごしてしまうかもしれないからだ。
 「69」は1969年の「69」である(快楽やエロスがテーマだとか勘違いして買わないようにご注意を)。戦後の混乱を脱し生活に余裕が生まれ、政治や社会の理想と現実のズレに人々の苛立ちがあふれ出てきた時代でもあった。安保闘争原子力空母エンタ−プライズの入港といった出来事が身近でリアルだった佐世保(いわずと知れた村上龍の故郷)の高校生が主人公で、そこにはもちろん村上龍自身の姿が色濃く投影されている。
 だから思春期の少年たちを描いた青春小説とも読めるし、1969年という時代を描いた時代小説(風俗小説)として読むこともできるが、いずれにしても尾崎士郎の「人生劇場」とか五木寛之の小説、あるいは夏目漱石の「坊ちゃん」などの優れた青春小説と同じように、若さだけがもつ美しさやはかなさ、やりきれなさを描いて、最後には圧倒的な感動をもたらしてくれる。
 私が持っているのは単行本の初版で、少し前に久しぶりに読み直した。たとえば庄司薫を読む人が今どのくらいいるかわからないが、高校時代あれほど感動したにもかかわらず、大人になって再読したら、その面白さは大きく減じてしまっていた。「69」を再読するにあたっても昔の感動を味わえるかどうか一抹の不安があったが、時を隔てて読んでも私にとってこの小説のすばらしさは少しも変わらなかった。
 「69」はカラッとかわいた現代的なユーモアにあふれている。次々と提示される記号(言葉)やエピソードの提示の仕方がポップでスピード感があって、読んでいて実に心地よい。次々に繰り出される当時の若者をひきつけた名前や言葉――ランボーやバリ封やトロツキークラウディア・カルディナーレやVANなどなど−−が喚起するイマジネーションの力それ自体によって時代を描こうとしているように見える。何十年という時間のフィルターをくぐり抜けて輝くこれらの記号(言葉)は確かに魅惑的で否応なく想像力を掻きたてるが、思想も英雄も映画女優も日本の片田舎の高校生にとってはヴァーチャルで実体がないともいえる。そういうものへの憧れが若者にはリアルだったりすることは否定しないが、この小説でも一番魅力的なのはいずれ離れ離れになる仲間との友情や結局冷めてしまう恋愛感情だったりする。それは誰にとっても普遍的で体験可能で、そういう意味でリアルだから最も強く胸に響く。
 青春時代をどう生きたかは人それぞれだろう。優劣をつけることにはあまり意味がないと私は思う。優れた青春小説には、若さとは、青春とはあっという間に通り過ぎてしまうけれど、すばらしいかけがえのないもの(若さゆえの意地悪さや小さな苦悩みたいなものもあるわけだが)だと実感させてくれる力(リアリティ)がある。リアリティがあるところにはなにがしかの普遍的なものがあり、読む者に生きる勇気を喚起するはずだと私は思うのだ。だから村上龍の小説に元気付けられてきた。その意味で凡百の薄っぺらな青春小説とは一線を画す。
 私にとっては「愛と幻想のファシズム」や「コインロッカー・ベイビーズ」こそ、その才能に興奮した作品だったし、「69」や「ニューヨーク・シティ・マラソン」「だいじょうぶマイフレンド」の頃の村上龍こそが本当に大好きな村上龍だった。「快楽」をテーマに書かれた小説にも我慢強く付き合ったが、私にはついにあまり面白くなかった。
 龍さん、またワクワクする小説を、ぜひ書いてください。待ってます。

(初出 BK-1 2007/08/09)