「うるわしき日々」 小島 信夫著

小島信夫の自在さが体現する「小説の可能性」

うるわしき日々
 最近ケータイ小説なるものがはやっている。2007年のベストセラーの上位を占めるという。中心的な読者は女子高生。等身大の主人公に起こる不幸や悩みに自分の姿を重ね合わせ、困難に立ち向う姿に共感し、時に涙する。「難しい言葉」など出てこず、ケータイで一話ごとに買って読める「気軽さ」も良いのだと、普段本はほとんど読まないという少女がTVで語っていた。
 ひるがえって、この「うるわしき日々」はどうか。
 主人公が作家であるとはいえ、ここに描かれる人々の暮らしぶりは、およそ日常的な範囲にとどまるといっていい。ただし、登場人物に若者はほとんど出てこない。だからといって老人向けというわけではない(しかしもちろん誰もが年をとる)。
 主人公の老作家夫婦もそれなりに悩ましい不幸に見舞われている。建てた家に発覚する不都合の数々。妻子に見捨てられた五十過ぎの息子はコルサコフ症(アルコール中毒の末期症状)で、その面倒を彼らが見なくてはならない。後妻として血のつながりのない子供たちを育て、献身的に家庭を支えてきた老作家の妻には、最近認知症の兆候もある。
 ケータイ小説の読者はこんな小説は読まないのだろう。この本を手に取り読み終えるには、多少は年齢と経験を重ねて、少し客観的に作品と対峙できる必要があるという気がする。そのような読者は、小説の中の出来事を「その程度の困難や苦悩は誰にでも起こりうること、事実多かれ少なかれ自分にも起こってきたこと」として眺めるはずだ。だが、――人はみな忘れてしまうが――当事者にとっては、日々直面する「その程度の」苦悩の中にこそ生きることの辛さ・苦しさがあることは、わが身をよくよく振り返るだけでも実はわかることだ。作者がこの小説で描いているのは、人間の苦悩は特別な状況や特別な人にだけやってくるわけではなく、日常を生きること自体が苦悩の連続でもあるという事実にほかならない。感情を抑え、対象に対する客観的な態度を保持しながら、小島はそれを淡々と描き出す。
 本文の一説。
 「<おそるべきことであるが、人間の苦悩は、当事者にしか分かるものではない>しかし、この動かしようのない事実というか真実ほど、人は忘れ易いことはない(後略)」
 さらにこう続く。
 「この<理解することができない>というのは偉大なる真実だからである。(中略)苦悩が同じ程度に通じたら、世界中の人類は、すべてノイロ−ゼになってしまい、地表の気象さえ変えてしまう結果にもなりかねない」
 小島が描いたものが「生きることは苦しいことで、それは当事者にしか分からない」ということだとしても、小島の筆致なり、主人公の老作家の姿勢にはむしろ信念に基づく「つよさ」が一貫して感じられる。そんな人生を決して悲観していない。そこにこの小説のすばらしさがあると私は思う。良い小説は何を描くかにかかわらず必ず読者に元気を与えてくれるものだ。
 私は、苦悩する日々を描きながらなぜ「うるわしき日々」なのか不思議に思っていた。その答えこそ小島信夫の導き出した「生きる意味」そのものなのだと思う。
 「うるわし」を広辞苑で引くと、もともとの意味は「事物が乱れたところなく完全にととのっている状態」とある。主人公の老作家にとってもっとも大切なことは、どんなキツイ状態に置かれていても「筋が通っている」(たとえばP.74)ことなのである。生きることがたとえ苦悩の日々であろうと、それが自分にとって「親が子の面倒を見る」ごとき必然であると認められるならば、困難を乗り切る「すべ」なり「知恵」なりを探し求め、投げ出さずに立ち向かう。それこそが「生きる意味」なのである。それこそが人生に対処する小島の流儀なのだと思う。ここに描かれた日々は筋を通したいと願い、筋を通して生きた老作家の「うるわしき日々」の記憶でもあるのである。

 小説家・小島信夫の最大の特徴は、その自在さ加減、その自由なスタイルにあると思う。小島自身、小説を書くにあたってプロットや構成にあまり拘泥しない「自由さ」が自分のスタイルだとどこかに書いていたと思う。一般人にとってはマイナーな存在の小島信夫だが、実は日本の小説を語るときに欠くことができない大きな存在なのかもしれないと、この小説を読んでやっと今頃私は思っている。
 たとえば「うるわしき日々」の語り手たる主人公の呼び名は、違和感なく自在に移っていく。老作家・彼・小説家・父・老いた夫・三輪俊介(最後の「若い小説家の手紙」の中では、あろうことか小島先生と呼ばれている!)・・・その縦横無尽でさりげない動きは、ポジションを変えながら、1人フィールド内を自由に動くことを許されたサッカーのミッドフィルダーのようだ。作者である小島信夫は、(小島信夫に似た)主人公の老作家を、ためつすがめつ眺めているのだ。実人生(それもまたフィクションでないという証拠もない)と物語の間を作家は自由に行き来し、そこに境界はない。
自由自在な点はほかにもある。この小説では時空が自在に移動する。それから、物語と批評が自在に入れ替わり立ち代る。後者など時に小説なのか評論なのかわからなくなる。
 小島自身も、本人以上に小島作品の本質を捉えているとさえ思える保坂和志も、小島の代表作として「私の作家遍歴」をあげているが、残念ながらすでに絶版で容易には手に入らない。図書館で借りて読みはじめたが、これは形式的には作家論である。しかし「うるわしき日々」の形式が小説であると断定しがたいように、「私の作家遍歴」が小説だと言われても納得してしまいそうだ。すると「私の作家遍歴」のあとがきに、こう書いてあるのを発見した。
 「私は気がつくと、けっきょく、作家やその人物たちを相手に、小説を書いているのでした」
 そもそも小説とはどんな形式も取り得て、排除されない自由さにその本質があるはずだという思いにいたる。
 最後にもう1つだけ指摘しておきたい。コルサコフ症のために虚言癖のある息子が、要所で決定的な発言をし、物語にアクセントと推進力を与えているが、私は、大江健三郎の傑作「新しい人よ 目覚めよ」のイーヨーをすぐに思い出した。ただ、日常的状況に似つかわしい一見ルーズな記述の「うるわしき日々」では、そうした散漫さにまぎれて、イーヨーほど存在感がない。ピエロもしくはトリックスターとしての長男の役割も「新しい人よ 目覚めよ」のイーヨーに比べると劇的な効果の点で劣るけれど、小島の書く小説のスタイルにはそのほうがふさわしいという気がした。

(初出 BK-1 2007/12/13)