「ユートピア」 トマス・モア著 平井 正穂訳

政治家や経営者にこそ、今まさに読んでもらいたい。モアが命賭けで作り出した世界の理想に学ぶべきことは多い。

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)
 期待以上に面白く読んだ。ここで示されたモアの理想の世界像が、結局のところ21世紀の現代でも、いまだに求められる理想であり続けていることは興味深い。
 テクノロジーの分野では、人間はこの何千年で格段に――とりわけこの100年ばかりの間に加速度的に――進歩したが、本質的で根源的な諸問題――たとえば「人間の幸せとは何か」とか「どう生きることが人として正しいか」とか――については相も変わらず結論は出ないままで、問題をむしろ複雑化させ、分かりにくくさせてしまった気さえする。そういう問いに対する答えは人それぞれだという考えにも一理あるし、人間は事実そのようにやってきた。その結果われわれが選択したこの世界はベストもしくはベターなのかどうか。1つの正しさに収束できないこと自体が人間の本性であるとすれば、良いも悪いもなく世界は遅かれ早かれこのようにしかならなかったんかもしれない。
 本書の全体は大きく2つに分かれている。第1巻では具体的な事実を挙げて当時のイギリス(およびヨーロッパ)の社会のあり様を批判しながら、対極にある理想の国として「ユートピア」が紹介される。モアは第1巻ですでにユートピアを、次のように簡潔に記している。

「すくない法律で万事が旨く円滑に運んでいる、したがって徳というものが非常に重んじられている国、しかもすべてのものが共有であるからあらゆる人が皆、あらゆる物を豊富にもっている国」

 もっとも重要なことは「平等の確立」であり、それは「すべての人が銘々自分の私有財産を持っている限り、決して行わるべくもない」とも述べている。
 ユートピアの詳細については、第2巻でテーマを区切って語られるが、考察が不十分なところも散見し、退屈な部分もある。ユートピアはモアが作り上げた空想の産物ゆえに、記述が詳細に及べば及ぶほど粗も見えてくるのはやむをえまい。ただ、モアの当時の政治に対する嘆きの深さ、人々の幸せな暮らしを希求する思いの強さ、それゆえに理想の国「ユートピア」を描き世に問うことへの情熱の熱さはどの行間からも伝わってくる。
 訳者・平井正穂さんの解説によれば、モアは暴政−−とりわけ国王ヘンリー8世ローマ教皇を無視し自ら聖職の最高位につくという暴挙−−に抗議し、役職を辞した後、国王の逆鱗に触れ斬首になる運命をたどったという。ユートピアに込められたモアの理想は単なる机上の空論ではなかったのだ。実現されるべき命がけの理想であり、その意味でモアは真に高潔な人物だった。静かに絞首台に散った彼の人生は、内なる激しさにおいて命を賭して理想を実現させようとする革命家のようだ。
 モアの本職は法律家である。その最高位である大法官にまで上り詰めていた。一方で、敬虔なカソリックヒューマニストでもあり、世界の平和と幸福は宗教(カソリック)の統一によって成し遂げられると考えていた。全体を締めくくる第2巻の最終章に「宗教」の項を置いたのはもちろん偶然ではない。宗教によってもたらされるはずの「人間の徳」が国づくりの上でも最も重要だと考えていたからにほかならない。
 ユートピアの聖職者は、最高の地位にはあるが、なんら権力を持たない。ただ自らと神の前にのみ頭を垂れる者にすぎない。ユートピアでは宗教は一切自由で(中でもキリスト教が優れているとも取れる記述も少しあるが)、礼拝堂にはあらゆる宗教の人が一度に集まり、「道こそ違えど、目指す高嶺は一つ」と聖なる存在を拝む。「人がその好むところのもの信ずるということは、もともと人間の力ではどうともしがたいということを、ユートピア人は知りすぎるほど知っているからである」とも記している。モアは敬虔なカソリックではあったが、目指していた理想の宗教とは、つまるところそういうものであったのかもしれない。権力によって聖なる存在に就いた国王ヘンリー8世の誤りはモアには許しがたかった。
 ユートピアの政治システムの基底をなすイデオロギー共産主義である。よくも悪くも大変素朴でわかりやすい。本書の特徴として「ただし」書きが多いことに誰でも気が付くが、訳者の平井正穂さんは、そこに法律家たるモアの理性に基づく留保があったと指摘されている。法律家として厳密さを求める姿勢が、「徳」に任せ置けず、ついつい「ただし」と書いてしまったということだろう。マルクスに先立つこと約400年、それでも探せば粗はいくらでも見つけられると思うが、動機の単純さ・直截さゆえに説得力を失わない。
 当時のイギリス社会はあまりにも貧富の差が激しかった。貴族など、きわめて一握りの富める者の末裔だけがさらに富み、庶民・弱者はさらに貧しくなり不当に苦しい人生を送るしかなかった。まともな仕事に就くこともできない数多くの貧しい人々が「食うため」「生きるため」に盗みや人殺しさえする。しかしそれを誰がとめられよう、とモアは書いている。
 日本でも老人や若年層に犯罪が増えていると最近ニュースで聞いた。自由競争と公平の名の下に、社会的弱者に厳しさを増すばかりの昨今の政策、自立が困難なほど薄給で働かざるをえない派遣やバイトの若者たちの急増と、本書を読んで今の日本の姿が中世イギリスとダブるのは私だけではないだろう。世界で最も豊かな国の1つで最も社会主義的だといわれる日本でもこの有様だから、他に数多くあるさらに貧しい国々の惨状は想像に難くない。
 この本を読み当時の社会を知れば、500年やそこらで人間の本性がさほど高級になることなどないのだと改めてわかる。今、日本で、世界で取りざたされている「格差」の問題と根はまったく同じだ。「格差」は人間の果てしない欲望から生まれる。それこそが戦争や犯罪など諸悪の根源だとモアは結論している。モアは500年前すでに(モアによればプラトンはさらに2000年前に)そんなことは看破していた。「世の中それほど単純じゃない」と片付けてしまうのは簡単だが、その単純な論理をしかと振り返ることは意外と重要な気がするのだ。
 「ユートピア=どこにもない国」とは、その名前自体がすでにアイロニーを含んでいる。探しても、探しても、この先もずっとどこにも見つけられないのだろう。そういえばカート・ヴォネガットの最後の本の題名は「国のない男」であった。ヴォネガットもまたどこにもない国の住人になることをこそ夢見ていたのかもしれない。
 蛇足だが、モアは大変忙しかったらしく、寝食を削ったわずかな時間を使って1年でこの本を書き上げたと、知人ジャイルズ宛の手紙に書いている。人生では誰にとってもこなすべき雑事(それももちろん大事なのだ)は少なくない、その点も今も昔も変わっていない。

(初出 BK-1 2007/11/07)