「国のない男」 カート・ヴォネガット著 金原 瑞人訳

これはヴォネガットの「サミング・アップ」である。

国のない男
 今年(2007年)の4月に84歳で亡くなったヴォネガットが82歳のときに書いた最後の本である。本書の一節。
「『進化』なんてくそくらえ、というのがわたしの意見だ。人間というのは、何かの間違いなのだ。われわれは、この銀河系で唯一の生命あふれるすばらしい惑星をぼろぼろにしてしまった」(P.21)
 ヴォネガットは地球の危機的状況を正確に把握している(と私は思う)。単に温暖化がどうとか、戦争がどうとか、格差や貧困がどうとかいうだけではない。ヴォネガットの感じている深刻さは相当差し迫ったものだ。ただ、彼の周りにそう感じている人は少ないということも書かれていて「アメリカ人も同じか」と暗澹たる気持ちにもなった。
 つまるところこの本は、ヴォネガットがついに人類を見限ったことを宣言し――だから彼にはもはや「国がない」――、ろくでもない世界ができあがってしまった過程に「心ならずも」加担した責任を悔い、生まれ来る後世の人間に詫びるために書かれたと言ってもいい。「歴史が始まって以来、どの時代においても、人間はこうだったのだ」とも言っているから、彼の後悔は人間として生まれてしまったことの悲しみといってもいいようなものだ。
 とりわけアメリカという国に対する嘆きは深く重い。先の大統領選によって民主主義さえ失われてしまったとヴォネガットは嘆く。その結果、不当に地位を得た権力者たちは、あらゆる差別を言葉巧みに正当化し、弱者ばかりをいじめ、たたき、地獄へ追いやっている、と。地獄とはもちろんイラク戦争を念頭においているわけだが、ヴォネガットの言う弱者にはイラクの人々だけでなく、戦場に送り込まれたアメリカ兵も含まれている。ブッシュとその政権に対する悪罵の数々はマイケル・ムーアの映画を観ているがごとく激しく直接的で、絶望的な嫌悪と怒りに満ちている。私はヴォネガットの言っていることにほぼ同意する。そして日本もまたアメリカに協力してきたことは忘れずにおかなければならないと改めて思う。
 それでも彼は「ヴォネガットらしく」ユーモアを武器にこの本を書き進める。それがこれまでもずっと彼のやり方だったし、戦い方だったからだ。そこが本当にすばらしいと思う。なぜなら彼が降伏していると書きながら、戦うことをやめていない証だから。
 彼はこう書いている。
「唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。(中略)百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっとうれしいと思う」(P.138)
 本当のことをいって、この本の内容はほとんど絶望的といってもいいことばかりが書かれているけれど、ユーモアによって戦う姿勢に貫かれているがゆえに、一条の救いの光ともなってくれる。アメリカという国に対する切り離せない愛情ともいうべきものも確固として隠されている(と私は思う)。それは腐れ縁の男女や仲の悪い兄弟みたいなものかもしれない。昔はありふれていたそういう関係さえ、今や珍品奇品となりつつあるということもまた愁うべきことなのかもしれない。
 いずれにしても、残されたものにとっては大変キツイ状況なのは間違いない。「いいこともまったくないわけじゃない」とヴォネガットが無言で語りかけてくれるような親密さがこの本には詰まっていて、そういう親密さが醸す温もりのようなものが、なんというか冬空の下で焚き火にあたった身体がじわじわと力を取り戻していくように浸透してきて、読む者を元気付けてくれる。
 サマセット・モームが晩年に書いた本に「サミング・アップ」があるが、この「国のない男」はヴォネガットの「サミング・アップ」と言って差し支えないだろう。人間とは何か?幸せとは何か?国家とは何か?権力とは何か?想像力とは? そうした根源的な問いに対する彼らの人生の精算であり、結論でもある。そういうテーマについて(限りなく)正直に書くことはなかなかに勇気がいることだと思う。その勇気にまず拍手を送りたい。そして何よりも、諧謔と批評精神にあふれたこの美しい本を最後に残してくれたヴォネガットに感謝したい。

(初出 BK-1 2007/10/14)