「また会う日まで 上」  ジョン・アーヴィング著  小川 高義訳

私がいまさら言うまでもないことは重々承知の上だが、アーヴィングの作品は、現代作家の中では圧倒的に面白い。この作品に対してもその評価はいささかも揺るがない。

また会う日まで 上
 アーヴィングの世界は、(少なくとも私には・良くも悪くも)そこに生きているのが真っ当だと信じられる世界なのだと今回も再認識した。もう少し平たく言うなら、そこにいたとして自殺したくなるような世界ではない、と言ってもいい(つまり魅力的な人物が闊歩する愛すべき世界ということだ)。時に真っ当とも言えない人物設定や強引なストーリー展開はむしろ大きな魅力である。
 世界で日々起こる出来事のどこを眺めても、大まかに言って人間という生き物が「ろくでもない」ということは、認めがたくも認めないわけにいかないだろう。「また会う日まで」で描かれる出来事も登場人物もまた「ろくでもない」ことに変わりはないが、この小説を読んで自殺をしたくなるとか、逆ギレして世界を滅亡させたいとか思うことはなかろう。この小説世界は、リアリティを失わず読者が生きて在ることを否定せずにすむぎりぎりの線(その線は意外と細いという気がしている)に絶妙のバランスでとどまっている。「この世界に生まれたことはそう悪い事じゃない。何のかんの言ってもそれは奇跡に違いないのだから」そんな風に思えなくもない世界が展開する。それで十分心地がいい。
 それにしても、アーヴィングの創造する作品の量と言い、質と言い、こんな小説が1つ書けたら「もう死んじゃってもいい。思い残すことはない」そんな気にさえなる。量はリアリティを支えるという意味で重要だが、分厚な作品を飽きさせずに読ませる力量は凡百の作家には真似できようもない。「20世紀のディケンズ」という帯の紹介が正当かどうか私にはわからないが、そういう長編小説をすでに10ほども書いているアーヴィングを「偉大な作家」と呼ぶことに私個人としては何のためらいもない。
 この小説はまた飛びきり長いので、やっと(上)を読み終えたばかりだが、他のアーヴィング作品同様、物語の中にどっぷりはまりこんだ私は、すでにその住人の1人であることを疑わない。主人公ジャック・バーンズを取り巻く世界のどの登場人物も出来事もちょっとやそっとでは忘れられない記憶の一部と化している。いつもと同じように、(下)を読むのが待ち遠しい(もちろん今夜から読み始めるのになんの不都合もない)。
 この小説のノリからは、良い意味での軽快さ・風俗性ゆえに庄司薫の小説4連作を想起させられ、懐かしくもあった。村上春樹への影響(もしくは共通点)は数え上げたらキリがない。また、1980年代後半、村上龍がセックスを題材に描きながら、「良質な」ユーモアと清潔なアトモスフィアを持つ魅力的な作品をいくつか発表したが、それらと共通する思考が感じられて面白かった。人間をとらえるのにセックスを(アーヴィングの場合にはさらに「死」を)モチーフの1つとして重視する姿勢は共通だが、今に至るまでアーヴィングの扱いは終始抑制が利いていて、そこにもリアリティと心地よさを感じる。村上龍の場合は、その後ちょっと「行き過ぎた」気がしている。
 ジャックが生まれたのは1965年、幼馴染で義姉(?)かつ最高の「アドバイザー」エマはジャックより6歳年上という設定だ。アーヴィングの小説を最も楽しみにしている読者層と同年代ではなかろうか。
 (上)では1992年ごろまでを描いている。日本ほどの急上昇・急降下ではないにしても、世界中が右肩上がりの未来にまだ希望を持っていた最後の時代かもしれない。地球温暖化、食糧危機、枯渇する資源。発展し続ける世界というイメージを抱き続けている人は今やよほどの楽観主義者だろう。したがって、ジャックの人生も下巻ではそううまくはいかないはずだ(実を言うとこの書評を書いている間に(下)の最初の章を読んでしまったことを白状しなくてはならない。「おー」)。
 いずれにしても、まだ下巻があるということがこれほど楽しみな作品はそう多くない。
(初出 BK-1 2008/05/28)