平出隆著「ウィリアム・ブレイクのバット」

ウィリアム・ブレイクのバット
 山崎ナオコーラの「人のセックスを笑うな」について、「タイトルを見ただけで、もう賞(文藝賞)はこの人に決まりだと思った」という趣旨のことをどこかで高橋源一郎が言っていた。この本のタイトル「ウィリアム・ブレイクのバット」を目にしたときの「これは読まないわけにはいかない!」という喜びもこれに近い。
 私が最初に読んだ平出隆は「猫の客」で、なぜ手にとったのか今では思い出せないが、一発でこの人の文章に引き込まれた。彼の著作はもともとあまり多くない上に、何冊かを除いてなかなか手に入れるのが難しい。だからなおさら、というべきか、私には、今そのどれもが−−小説もエッセイも詩も−−とても貴重な宝物みたいに思える。
 詩人の最大の武器は、目利きよろしく正確に言葉を選びだし、適切な場所に配置する力である。波に洗われ、海岸に堆積して、埋もれてはまた現れる砂粒のごとき膨大な言葉たちの中から、詩人はひとつの言葉を選び取り、別の言葉と結びつける。結びつけた言葉の間のダイナミクスが大きいほど強い効果が生まれる。
 ウィリアム・ブレイクとバットは、常識的にはなかなか結びつかないわけだが、詩人はこれをいとも簡単に結びつけてしまう。
 ベースボール好きの詩人は、ウィリアム・ブレイクの「無垢の歌」の中の詩「こだまする緑の原」の挿絵に描かれた少年の握る杖状のものがバットだと、あるとき気づくのだ。18世紀のイギリスには、すでにベースボールという遊びが存在した。詩人はその事実を知っていたが、それがバットだと気づくには少し時間がかかった。この詩人の「気づき」をベースボール好きゆえとのみとらえるのはおそらく正しくない。私には詩人の想像力の中でウィリアム・ブレイクとバットはやがて組み合わされるべき言葉としていつの頃からか存在していたと思えてならない。それは、経験や学びの蓄積としての詩人の身体の内奥で、この世に生まれ出る必然性を溜め込みながらふつふつと熟成していたのだという気がする。少年の手にする棒状の何物かをバットだと認識したその瞬間、赤ん坊が「おぎゃあ!」と叫んでこの世に生まれでるごとく、詩人の指先からその言葉はつるんと滑り落ちた。世界のあらゆるものはおそらくはこのようにして生まれ出る、そこに偶然など入り込む余地はないと思えてしまう。
 「なあんだ、それじゃあ詩人が考え出した言葉(の組合せ)じゃないじゃん」という人がいるかもしれない。確かに、詩を書き、挿絵を書いたのはブレイクに違いないが、「ウィリアム・ブレイクのバット」という言葉を宇宙に産み出したのは平出隆なのであってブレイクではない。その挿絵を見た人で唯一−−あるいは初めてといってもいいが、こういう場合「唯一」と「初めて」は当然同じ意味になる−−平出隆だけが活字にしてみんなの前に提示した。
 エッセイというジャンルゆえ、テーマや素材には多少のゆるさがあることは否めないが、詩人の言葉を紡ぐ確かさ、切れ味の鋭さを十分味わうことができる。「世界の果て書店」「ラウル・デュフィの野球場」「自動車神社」「絶対初心者マーク」などほかにも魅惑的なタイトルのエッセイが目白押しである。タイトルの一つ一つが詩の言葉そのものだといっていい。さらにギリギリした厳しさをお望みなら、彼の詩を読むべきだろう。
 全部読み通すと、ベースボールの話が多いのはともかくとして、後半の運転免許がらみの話の数はやや多すぎるキライがあるけれども、そんなことは何ということもない。読み終えてしまうのがもったいないほど楽しい本である。
 最後に、緒方修一さんの装丁のすばらしさにもふれておきたい。こういう本では、手にしたときの喜びという点で装丁の持つ意味は小さくない。白い紙の質感にもデザインのシンプルさにもセンスの良さを感じる。その潔い美しさがこの詩人の文章にふさわしい。