「小説修業」 小島 信夫著 保坂 和志著

小説に未来はある??と信じたい。

小説修業
 面白かった。面白すぎてあっという間に読んでしまって、快感という点では、たとえば村上春樹のエッセイを読んでいる時間の幸福感に似ていた。
 この本は、保坂和志と、保坂が「先生」と呼ぶ小島信夫との往復書簡という体裁の小説論であり、小島信夫論にほかならない。小説家・保坂和志がなぜ小島と小島作品を敬愛するのか、その理由を丁寧に説明することを軸に「小説の危機と可能性」を明らかにしようとしている。読者はまた、小島信夫という作家の特異性と重要性に(おそらく初めて)気づかされることにもなる。逆のやりとりもあるが、元々これは保坂のたくらみだったし、小島信夫にはそうした頓着はいつもあまりないのだ。
 自作品に対しても放任主義的な距離感を持つ小島は、かなり一方的な保坂の話にも丁寧に耳を傾け、「小島信夫」を材料に、むしろ生徒のような態度で小説についての考えを披瀝してはいる。
 というわけで、題名どおり、小説に対しては二人とも修業者である。二人の関係は対等だと何度も書かれているが、やはり小島が師もしくは兄弟子ということではあるのだろう。小島には修業を重ねた末に高みに到達した高僧のような自由さが感じられる。一方、保坂はこれから書く未来の小説に向けた意気込みやもがきがある。昨年(2006年)12月に小島信夫が亡くなった時には保坂も弔辞を読んだはずだが、ショックは大きかったろうと思う。私もこの本を読んで小島という作家が一気に身近に感じられて、ひどく残念な思いが募っている。謹んでご冥福をお祈りします。
 この二人の作家??小島信夫保坂和志??の小説を、ただ「面白いか?」と問われれば、「村上春樹の小説を読むことに比べれば、はるかに面白くないと思う」と答えるだろう。しかしながら、小説はただ単に読者を面白がらせるためにだけ書かれるのでも、幸福な時間を読者に提供するためだけに書かれるのでもない。面白さにも色々ある。


(初出 BK-1 2007/06/08)

「写真ノ中ノ空」  谷川 俊太郎詩 荒木 経惟写真

空を撮っても荒木の写真はすばらしい

写真ノ中ノ空
 この写真のほとんどが、どうやら陽子が死んだ直後に「空ばかり写していた」当時のものらしいと、癖のある字で書かれたあとがきを読んで知り、陽子を思う荒木の気持ちを思って切なくなった。
 電信柱と電線の感じから同じ場所で撮ったと思われる写真が多数あり、空の見せる表情の違いが面白い。
 空以外の景色に特徴のない分、なんらかの感情を抱いて空を見上げたことがある誰にとっても、昔確かにどこかで見たことのある空だという懐かしさを思い起こさせるに違いない。荒木よっておそらくは編集されたここにある空は、より以上に人の心と結びつく力を強めていて、ときどき見るものの感情にくっついてはなれなくなる。荒木の写真には何を撮ってもそういうところがある。それはやはり天才にしかできないことだという気がする。少なくとも日本ではそういう写真が撮れる人がほかにいないと私は思っている。
 体裁について一言言えば、荒木の写真と谷川の詩を上下に置いて、縦書きで見せるというスタイルは斬新かもしれないが、この綴じ方の本では写真も見にくいし詩も読みにくいと私には感じられた。

(初出 BK-1 2007/05/21)

「13歳は二度あるか」  吉本 隆明著

「13歳」へのプレゼントには不向きかもしれない

13歳は二度あるか―「現在を生きる自分」を考える
 今年13歳になる姪がいて、彼女にプレゼントしようと思って読み始めた。しかし、読み終えてみて、プレゼントしようかどうか迷っている。
 内容的には人が生きていくうえで最も重要なテーマをいくつも含んでいる。文章的には確かに「中学生向け」に言葉を選んで平易な表現をしていると思う。しかし、平易で簡略な説明に徹している分突込みがどうしても足りないので、13歳の多くの読者にとっても十分に理解することや興味を持って読み進むことができるだろうかと思った(ついでに言えば、この本の中では最もどうでもよいような現実的な話題である「万引き」についての文章は言葉足らずなために誤解を生んでしまいかねないし、「子供の育て方」についての吉本の「確信」の根拠はイマイチよくわからない)。
 私が13歳の中学生に対してまずアドバイスしたいことは、「何事も自分で考え、判断することが何より大切」ということだ。この本で吉本が言っていることと完全に重なる。
 また、フーコーを引き合いに出して「死」は「生」と別の系列である、「死は残された人たちに帰属する」から、「死ぬ本人にはコントロールできない」という考えもまた、デリダの死の直前のインタビューでの発言などにも通じ、興味深い。
 細かいところはともかく、私は吉本のこの本での発言の趣旨に概ね賛成だし、「死の間際まで、自分の中の矢印を生の方向へ向けておくべきだと思う」(P.151)と語る、老思想家の誠実な主張に賛意を表するものである。
 だからこそ、13歳の読者が「つまらない」とか「わからない」で、途中でやめてしまうようなことになるのは実にもったいないと思う。これは誰かから与えられる本ではなく、機が熟したら自ら掴み取りに行くような類の本であるのかもしれない。

(初出 BK-1 2007/05/21)

「生きることを学ぶ、終に」  ジャック・デリダ著 鵜飼 哲訳

「死」こそが「生」を学ぶ唯一の場であるらしい、ということ。

生きることを学ぶ、終に
 まず初めに、鵜飼哲さんのすばらしい訳と文章に敬意と感謝を申し述べたい。
 死という現象の及ぼす力は、「生き残った」生者の側に??死んだ側にではなく??のみ、多くの場合悲しみや怒りとしてもたらされる。「あんなひどい死に方をしてかわいそう」とか「天寿を全うして幸せな人生だったわね」とか人は言うが、よくよく考えれば、死んだものにとって、「死」はもはや悲しみでも喜びでもない。
 デリダにもとうとう、「生き残り」ではなく、死を受け入れる「当人」となる瞬間が迫りつつある。この、おそらくは偉大な哲学者にとっても、死と生の両方を同時に体験することはできないが、そうした歯がゆさをも生へのベクトルに変えてしまう哲学者の“挙措”こそが感動を呼び起こすし、勇気を与えられもする。
 また、デリダという人が、死を恐れながらも、生を肯定し続けた全き哲学者であったと、この小さな本を読んで信じることができる。彼の言葉や態度は権威や地位、名誉などに対して無関心だ。デリダのやってきたことは結局のところ、国境や人種、性による制約を取っ払って、全ての人が知を深め、考え、議論できる環境を作る努力だったといってよいのかもしれない。1つの強国やマスメディアのような既成の権力ではなく、「独異的な」個人、または小さな組織・国家がまず確固として存在できることが「脱構築」の概念を実践するベースだからだ。あらゆる偏見やいかなる圧力からも自由な場所で、議論し、考え、再構築すること。それはまさに古い命が死んでは、新たな命が生まれることの繰り返しとしての人間の営みそのものにつながる正のイメージである。デリダが死と引き換えに「生きることを学び」得て、満足とともにその生を終えたことを願わずにはいられない。

(初出 BK-1 2007/05/01)