「逆シミュレーション音楽」をめぐって(1)

 その1「What is Reverse-Simulation Music?」

 三輪眞弘氏のアルス・エレクトロニカ賞グランプリ受賞記念講演「The Long and Windingroad」(と確かおっしゃっていました)を聞く機会があり(http://d.hatena.ne.jp/Uu-rakuen/20070625/p1)、たいへん興味をそそられた。
 講演で三輪さんも言っていたけれど、「逆シミュレーション音楽」が生まれざるを得なかった現代という状況の困難さは「音楽」に限らず「芸術」全般に共通するにちがいない。
 表現と方法をめぐる表現者の悩みは(過去よりは少し深刻であるにせよ)現代人に固有というわけではない。遅れてきたものの苦悩であり、そのために現在「是」とされる価値観を否定する(もしくは再構築する)というのは繰り返される常套手段であり、必然である。そこに驚きはあまりない。私が面白いと思ったのは、そのために三輪さんが考えた「ありえたかもしれない音楽」という発想であり、パフォーマンスそのものである。

 ここからは「逆シミュレーション音楽」というものが発想された経緯を聞いて私の感じたことである。
 今地球で起こっていることに考えをめぐらせ、特にこの100年間のさまざまな「急速な変化」−−人口増、科学の進歩、環境悪化、過剰な利便性などなど−−を見ていくなら、テクノロジーや一部の先進国(もちろん日本も入る)の過剰な豊かさばかりでなく、音楽や文学のような表現領域においても、情報は劣化しつつあるように思えることがあるし、限界域に近づいてきているような気がしてならない。
 もっと踏み込んで言えば、そうした人類の発展をこれから先も引き続き「是として続けていっていいのか(もうそろそろおわりにすべきじゃないか)」という疑義を投げかけてさえいるようにも思えてならない。
 人間の可能性は無限だとか、努力すればできないことはないとかよく言うけれど、本当にそうだろうか? というギモンでもある。

逆シミュレーション音楽

 「逆シミュレーション音楽」がどんなものなのか知らない人のほうが圧倒的に多いと思う。
 無茶を承知で、先日聞いた講演やWEBの資料を参考に私なりに噛み砕いてみるなら、
「ある規則に則って、n個の数字の配列をコンピュータによって生成させる(シミュレーションする)。それぞれの数字には特定の音と動き(たとえば肩をたたくとか鈴を鳴らすといった人間の動作によって生じる音)が割り当てられている。コンピュータによってシミュレートされたとおりに人間が音(と動き)によって構築するパフォーマンス全体」
 といったことになるだろうか。コンピュータが生成した音楽を人間が演奏する(逆シミュレーション)というのが名前の由来である。
 こうした形式上の定義とは別に、三輪さんは「ありえたかもしれないと夢想することから生まれた音楽」というような言い方もされていて、そのためにはあったかもしれない民族や文化、言語、慣習などを具体的にイメージする必要があるとも言っていた。これはある意味「神の仕事」と言ってもいい。
 正確な定義は、IAMASの三輪先生のサイトで確認していただきたい。http://www.iamas.ac.jp/~mmiwa/rsm.html
 ところで、この音楽を演奏する集団は「方法マシン」と呼ばれている。メンバーの女性の1人が講演で報告されたところによると、演奏技術の熟練(動作のスピードと正確さの熟練)に日々取り組んでいるらしい。「次の公演では最速を達成できると思います」と言っていた。
 三輪さんの話から、逆シミュレーション音楽の重要なポイントを拾い上げるなら、次の2つになるだろうか。

■身体を使い、熟練を必要とする音楽であること
 三輪さんは、楽器に手馴れて手元を見ないでも弾けるのと同じように、練習を重ね、動きがより身体化されることで、(おそらくは)表現も深まりよりすばらしいパフォーマンスを見せる、というプロとしての熟練という過程を重要と考えている、というような発言をされていた。
 また同じ規則に則って動きを繰り返す人形(またりさま人形)も作製されている。
■即興ではなく規則に則った音楽であること
 もう1つ重要なことは、単純なルールによって繰り返される動作のループで構成されている(ように見える)ので、楽譜も不要で暗譜の必要もない。しかし即興ではない。
 「ルールとは神の代わりでもある。ルールがない限り人間に自由はないと思う」とも言っていた。制限がない−−つまりなんでもあり(できる)ということは何もない(しない)と同義ともとらえられるわけで、人間の行為は意味を失いかねないとも言える。それはすなわち「自由がない」ということに等しい、そういう意味だと私は思った。ケージに対する批評的な立場の表明でもあるのかもしれない。
 たとえば、芥川賞作家・中村文則さんも、「小説は言葉でしか表現できない」と言い、「制限があるから自由があると思う」と今朝(07/7/15)の朝日新聞で語っていた。

 私自身は、制限があるから自由を欲するとは言えると思うし、制限があるから工夫をするとも思う。ルールがあるから人間なのだとも思う。規則に則っていることは、自然に放り出された動物ではなく、社会を築きそこに生きる人間を肯定する意味が含まれているという気がする。
 だが、もっと大きなスケールで言えば制限のないものなど基本的には何一つない。宇宙は現在膨張しつつあり、無限のように思うが、その宇宙でさえビッグバンという始まりがあった。始まりとはつまり制限に他ならないだろう。時間も同じだ。
 したがって、制限があるから自由があるのではなくて、どちらにしても制限はあり、人間はどのみち自由ではないがどの制限を選ぶかの自由を人間は欲する。制限を選べるということは、そこで人間は自由だといえるのではないか、と言うほうが私にはぴったりくる。

 また、「偶然が入り込まないから、同じことがコンピュータでもできるが、コンピュータが演奏した場合と人間が演奏する場合ではアウトプットされるものが違う」はずだというようなことも言っていた。それは確かにその通りで、人間がやることで偶然が入り込む。そこに人間が存在する意味があるとすれば、その点でも逆シミュレーションと言えるわけで面白い。
 ぜひ実演を聞いてみたいが、次は三宅島らしい。映像でチラッと見た演奏風景(「逆シミュレーション音楽」理論に基づく最初の作品「またりさま」)は、民俗音楽調で、動作はまるで何かの宗教儀式を髣髴とさせた。最新の音楽理論でコンピュータが描いた音楽を人間が奏でたら、古い民俗音楽のように響き、見えるということが私にはとても面白かった。。
※この文章をアップするにあたり、「方法マシン」のHP(http://method-machine.com/)を見てみたら、昨日(07/7/14)が公演日でした。台風大丈夫だったでしょうか。台風到来前で運が良かったといえば良かったんでしょうが・・・
(初出 Hatena Diary“悠々楽園” 2007/7/16)